天保飢饉は、天保四(一八三三)年と同七・八年の二つのピークがある。天保四年の凶作については、後に見るように多くの村に年貢減免や夫食拝借の訴状が残されており、深刻なものであったことが理解されるが、飢饉状況を直接的に示す史料は残存していない。
これに対し、天保七年の状況は、上川原村の指田十次家の「御用留」や同村指田万吉家の『年代記(私題)』などに残されている。これらの史料を利用して、当時の凶作・飢饉の状況をみてみよう。
天保飢饉は冷害がきっかけでおきた。それは、「(天保七年)四月中旬より八九月頃ニ至るまで、青々と照る事なく、多分蒙々として雨」(史料編九八)というような、異常な降雨と冷害がもたらしたものであった。当然のことながら作柄はきわめてわるかった。すなわち、「場所或は早稲(わせ)類者四五分通ニも取上候得共、熟田・冷田・晩稲(おくて)類は壱分、又者皆無茂数おふ(多)し」(史料編九八)というような状況であったのである。
本来、多摩郡の畑作農村は、主穀を自給しにくい地方であった。その上におそいかかった凶作であるから、穀物はすぐに底をついてしまったであろう。ところが、穀類を移入しようにも、東北・関東を中心とした全国的凶作であり、容易なことでは入手しえない。
このような状況を利にさとい商人達がみのがしておくはずはなかった。次のような状況が一般化したのである。
去己年不作以来、米穀囲持候人気押移り、中ニハ利欲ニ拘り、余業之者も穀商内相始メ、耀(せり)買等致、米価可二引上一見込も以囲持候族も有之故、世見(間)一統至而米穀雑穀共差詰り、当秋直段格別之高直候(史料編九七)
商人達は、凶作をさいわいに、これをもうけの手段にしようとし、買占め売おしみをしたのである。買占めに動いた商人のなかには、普段は米穀をとりあつかわないものが数多くいるというのである。このようにたんに不作が原因となっているだけでなく、種々の人為的要素が加味されて、異常な物価上昇が出現した。
米価は、不作が決定的となった七年九月ごろからあがりはじめ、八年の四月頃にはピークに達している。米が高くて容易なことでは入手しえなくなった。しかし、いかに高くとも、米・雑穀を買えるうちはまだよかった。凶作が長びくとともに、地域によっては米・雑穀を買うこともできない事態が出現している。史料は次のようにのべている。
山家ニ而、葛・野花を食する事中々少之儀ニ非ス、酉の春ニ相成候而者、其儀も難レ及飢死する者数を志(し)らず(史料編九八)
その後、作柄の回復がみこまれ、若干物価は下降したが、そこへ再び災害が発生した。暴風雨である。この暴風雨については、次の記述が残されている。
当酉年(天保八年)秋作之儀、万物豊作御座候而、追々雑穀米穀相場下直ニ可レ成レ相与存候処、八月五日者四日之夜七ッ頃(五日朝四時頃)より風吹出、翌五日大雨ニ而作物大荒仕候、又候九月十四日朝より大雨ニ而、已の上刻(午前十時頃)時分ニ相成、東風吹出、直様南風与相成、所々において家又者山林竹木ニ不限打損シ、作物の儀者、粟・稗半作ニ茂取揚、尤早苗・稗ハ、宜敷御座候、そは(蕎麦)荏(えごま)ハ皆無与存居申候、田方ハ満作茂御座候(史料編九九)
このように暴風雨は、粟・稗・蕎麦・荏などの雑穀をいためつけた。ただ幸いのことに、稲はこの暴風雨を耐え、平年作に近い収獲をあげることができた。この米作の回復によって、昭島市域に住む人々は、やっと飢饉状況から脱出することができたのである。まだ東北地方では多くの人々が飢死していたのだが、関東は八年の秋から回復に向かっている。