C 貼札騒動と郡内騒動

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 簡単に天保飢饉のあらましを見てきたわけだが、この飢饉のさなかに、昭島市域の村人たちを驚かした二つの事件が発生した。それは、天保七年八月、甲斐国郡内地方(山梨県大月市を中心とした地域)の農民がおこした一揆と同年一一月、青梅・村山周辺の街道にはられた打こわし予告状がひきおこした不穏状況である。前者を郡内騒動とよび後者は天保貼札騒動とよばれている。二つの事件のあらましをのべておこう。
 甲州郡内地方は山深い村々であった。農業生産だけでは生計をたてられない人々は、甲州道中での駄賃稼ぎや郡内絹として知られている織物生産でくらしていた。ところが天保年間に入ると、先にみたような飢饉状況によって米価が急騰する一方、織物の値段が下落してしまったのである。苦況におちいった人々は、米安売りなどを要求して一揆にたちあがった。一揆は米穀商などを打こわし、質地・借金証文などを焼き払うという行動を伴っていた。騒動は八月二〇日発生し郡内地方を席捲したのち、甲府を中心とした国中地方に進み、所々を打こわしながら、信州境へまで進出した。最初一揆勢に圧倒されていた甲州の代官であったが、隣接諸藩の助力を得て、ようやく二四日に鎮圧したのである。
 一方貼札騒動とは、七年一一月二四日夜、青梅村や村山辺の街道に、打こわし予告の貼札が出されたことをさす。この貼札は、米・穀物買占人として四人、穀物買占人九人、穀物占売四人、世話人預り二人を打こわし対象としてあげ、二八日夜、青梅街道と秩父街道の交わる辻に、人々があつまることをよびかけていた。この貼札は事前に役人に知らされ、防備の結果、人々が集まることなく終結したが、打こわしの対象として名ざしされた人々はいうまでもなく、多くの人物をおどろかした。
 この貼札騒動は、昭島の人々をも驚かした。それゆえにこの貼札の内容をかきとめたものが、大神の中村家などに残されている。(史料編九六)また上川原の指田七郎右衛門はこの事件を次のように記録している。
  村山辺張札者全□迄之儀ニ候得共、向後如何様なる悪者可罷出茂難斗候間、心違無之様可(得欠カ)其意候、若ヶ様之儀有之候ハハ、切捨又者玉込鉄砲御免、松(平、欠)和泉守様より被仰渡候、如之小前之者共、右体之儀ニ荷胆決而不致様連印差出候事三四度、且又青梅江弐度、八王子江三度罷出候、此費右札張候一条ニ付、几弐三百両分与申風聞ニ候(史料編九八)
 このように、事件は未遂でおわったのであるが、幕府はあわてふためき、「切捨」や鉄砲使用を許可し、一揆へ参加しない旨の請状を三・四度にわたって出させたり、あるいは村役人達を何度か青梅・八王子にあつめ教諭したりしたのである。
 これらの騒動は、昭島市域で生じたものではない。だが、昭島市域の人々をおどろかせるにたる事件だった。指田万吉家には、郡内騒動を記録した古記録が残されている。なにゆえに、指田家の祖金右衛門は、この記録を残したのであろうか。
 郡内地方と昭島市域は、現在考えるほど遠くへだてられた地域ではない。甲州街道にそって下れば、ほどなく郡内に到達する。また郡内と昭島は、ともに養蚕・織物を重要な稼ぎとしており、経済的にも深いつながりをもっていたのである。一揆は郡内から国中地方へと発展していったが、経済的つながりの深さからいって、八王子をめざしてこないとはかぎらなかった。さらに郡内騒動と同様の一揆が、昭島市域とその周辺におこりかねない事情が、彼に積極的に記録をとらせたと推測することも可能であろう。現に八王子宿では、郡内騒動直後の八月二八日、騒動のニュースを聞いた在町住民達が、蜂起しようとしていた事実が存在するのである(註四)。これらのことは、そのまま貼札騒動にもあてはまるであろう。
 昭島市域は、直接一揆等の舞台にはならなかったが、飢餓と一揆への恐れのなかで、天保飢饉の時期をすごしていったのである。