E 旗本の収奪強化

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 旗本達が、「御救」機能を有効に発揮しえなかったことをみてきた。しかし問題はそれにとどまらなかったのである。じつは旗本達は、天保飢饉下の村々から通常以上の収奪をしようと試みてさえいたのであった。その要因は、旗本財政の窮乏にあった。
 通常の時でさえ赤字であった旗本財政は、飢饉の進行によって、赤字巾をますます大きくした。それは、当時の旗本達がとっていた徴租法によるところが大きい。いうまでもなく、本来年貢は米でおさめられるものであった。しかし旗本達は米納部分を換金させ、金で年貢を納めさせた。このような徴租法を石代納とよんでいる。この石代納の換金は、幕府がきめた公定値段(これを張紙値段とよぶ)にもとづいてきめられることが多かった。この張紙値段は、かならずしも現実値段と一致しなかったし、とくに飢饉時など低くおさえられていた。
 石代納であるかぎり、旗本は年貢を金で受けとる。そして、その金で米を買って生活しなくてはならない。江戸における米価は、年貢収納以降も、日々に値上りしていく。ここに旗本財政が極度に悪化する要因があった。
 財政の赤字巾が大きくなった旗本達は、それを知行地農民に転嫁しようとした。飢饉状況下にもかかわらず、否飢饉であるが故に旗本の収奪は強化されていくのである。たとえば、天保七年中野家は旗本坪内に百両の御用金を命ぜられ上納している。さらに坪内は、天保八年正月と二月に八〇両の先納金を中神村からとっている。同じ中神村の旗本曾雌は、天保八年の正月と七月、それぞれ一〇両・四〇両の冥加金を原茂家に上納させた。あるいは、田中村・拝島村を領知とする太田は、天保七年八月、拝島・田中を含む武相五ケ村の知行地に、百両の御用金を賦課したのである。
 これらの収奪は、村内にある貴重な金銭を、旗本がすいあげていったことを意味する。もしこれらの金を、村の救恤活動にまわすことができたら、どんなにか飢饉状況を軽くすませることができたであろう。当然のことながら、村村から収奪に対する反対運動が各地におこった。残念ながら、昭島市域には、その種の史料は残っていない。だが、旗本太田から田中・拝島村と共に、百両の御用金を分担させられた相模国田代村には、御用金減額の訴状が残されている(『神奈川県史・史料編8』)。この田代村の訴状を見ることによって、昭島市域の旗本領農民の気持ちを推測することにしたい。
 訴状は、まず村の窮状を次のように訴えた。
  平年ニハ農間ニ夫々相働営之足合ニ致候得共、家作諸普請其外物毎検(倹)約ニ致候事故仕事無之、商迚も通用悪ニ付稼薄、且打続養蚕違ニ而、仕来候庚申・甲子・巳待祝ひ事、勧(観)音講・念仏其外休ニ致、無拠縁談・仏事等ハ半割飯ニ取賄、諸事厳重ニ取極罷在候処、小百姓者盆前ニ喰終り、中已上之百姓も此節穀物有之喰(仕脱カ)舞、必至と及困窮
 田代村は、農間に手間働をして経営を維持していたのだが、飢饉状況がつづいて、社会全体が倹約するので仕事が少なくなった。また、養蚕も不作なので、非常に経営が苦しい。そこで、庚申持ちなどをやめ、また縁談や仏事も麦を半分いれた飯ですませるなど、倹約につとめている。しかし、どのように倹約をしても小百姓は盆前にはたくわえがなくなり、中以上の百姓とても穀物はなくなってしまう状況であるというのである。
 このような状況の村に、「殿様御参府御入用金并御上屋敷御入用莫太之上、米穀高直ニ而必至と御難渋」という理由で、五ヶ村の知行所に百両の御用金が賦課されたのであった。しかも、この年の春には別の御用金が賦課されており、それを皆済しえていなかった。その上にこの御用金が、賦課されたのである。田代村は、半分の五〇両の納入はうけおったが、残り五〇両は拒否することとした。そして、もしこの要求をうけ入れなければ、不測の事態も考えられると、旗本にせまっていった。訴状は次のように述べている。
  此節相州ニ而ハ大磯宿ニて商人家四、五軒計潰候由、藤沢宿・厚木町・伊勢原町抔も、小前之者共大勢寄合、殊之外及混雑、且石倉村ニも大勢寄合、五、六日已前より(に)干今騒動之様子、右様之時節ニ御座候得ハ、村方迚も人気六ヶ敷、役人共甚心配罷在候、……(中略)……将又立替之御用金等厳敷取立候ハゝ、何様之騒動候も難計(傍点引用者)
 訴状は、大磯宿や藤沢町等で生じた打こわし闘争を例にひきながら、民心がきわめて不安定なことを御用金反対の理由としている。とくに、傍点の部分に注目したい。もし御用金取立が強行されるならば、田代村において打こわしなどの闘争が発生しかねないと指摘しているのである。
 この田代村の状況は、そのまま拝島村や田中村に移しかえてよいと思われる。先に郡内騒動や天保貼札騒動を見たが、昭島市域もそのような騒動へ移行する条件は、充分存在していたのである。
 幕藩領主は、天保飢饉という状況に直面して、本来の領主的機能の一つである「御救」機能を発動しえなかったことを見てきた。とりわけ小規模な領主である旗本の場合には、このことがより鮮明に出たばかりでなく、逆に収奪を強めていったことも確認した。このことが、飢饉状況を一層ひどくしたことは疑いない。天保飢饉は、直接的には気候の悪化によってもたらされたのだが、それを激化させたのは政治の動きであることをこの例からも見てとることができるであろう。