F 天保飢饉が与えた影響

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 最後に、天保飢饉が村落構成に与えた影響を見てみよう。昭島市域の村落は、天保飢饉をさかいに、その構成を大きく変えたのである。当然のことながら、飢饉は貧しければ貧しいほど深刻な打撃を与えた。貧農達は、飢饉によって経営を維持しえなくなり、所持地を手ばなしたり、潰れ百姓となったりした。このような貧農の対極に、豪農達がいた。貧農の手ばなした土地を積極的に入手して土地兼併をすすめ、地主としての地位を確立させていくのである。
 この代表的事例は、中神村の中野家である。中神村における中野家の所持高は、天保初年には約七〇石程であった。ところが飢饉をへた嘉永三年には、二三町歩、一三五石余にまで達している。この結果、中神村の全耕地の約三分の一が中野家のものとなるという状況になったのである。(次節で詳述する)
 上川原村の場合は、少しく異なってあらわれた。すなわち、百姓軒数および人口の減少である。表は享保期から開港までの上川原村における百姓軒数、人口の推移を示したものである。この表から上川原村の歴史に三つの画期があることがわかる。

第8表 上川原村 家数・人別増減表

 享保五(一七二〇)年と元文三(一七三八)年の間が第一の画期である。第二の画期は、安永五(一七七六)年と安永八年および寛政元(一七八九)年にあり、第三の画期が天保四(一八三三)年と同五年にある。第一の画期は、享保の新田開発により村勢の増大としてあらわれた。第二の画期は、江戸への出稼ぎの増大および天明飢饉がもたらしたものであろう。百姓軒数は維持されているが、急激な人口減少をひきおこしている。第三の画期がいま問題としている天保飢饉である。この場合は、百姓軒数・人口共に減少していることが特徴的である。とくに百姓軒数の減少は、下層民が経営を維持しえず、潰れ百姓となったことを示し、飢饉の打撃がいかに大きかったかをものがたっている。開港以後上川原村は、百姓軒数に変化はないものの、急激な人口増加を示すが、この点は後述(五章一節)することにしたい。
 天保飢饉は、富める農民が急激に土地兼併を進める一方で、下層民が彼らに土地を売り小作人に転落したり、潰れ百姓として村外に出ざるをえなくなる状況をつくり出した。これは村を分解し、内部での対立を激しくさせていくことになる。そして村方騒動を頻発させ、ついには一揆・打こわしをよびおこしていくこととなるのである。(本章二節二項および五章参照)