A 幕府の天保改革

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 天保飢饉は、積年の幕藩体制の矛盾を一挙に露呈させてしまった。飢饉によって苦しめられた農民や都市民は、幕府・藩の政治に不満を示し、米穀買占めに奔走する豪農・商人達に怒り、全国各地で一揆・打こわしを起こした。しかもこの一揆は、すでに幕藩制的支配領域の区別を越えたひろがりをみせている。このような闘争を広域闘争と呼ぶが、それがつぎつぎに発生したところに天保期の特徴がある。先にみた郡内騒動や三河でおきた加茂一揆などがその代表例である。
 このような民衆の闘いがつづいている時に、「天下の台所」といわれた大坂で、こともあろうに元大坂町奉行与力大塩平八郎が、大坂城代・町奉行の政治を批判して決起した。この乱は、わずか二度の衝突で鎮圧されてしまうのだが、幕政担当者達を混乱と恐怖におち入らせた。
 しかも、この期、欧米資本主義列強の対日侵略の危険性も強まっていた。すでに当時蝦夷地とよばれた北海道には、ロシア人がたびたびおとずれ、危険性が指摘されていたのだが、天保期に入ると新たに南から最強の資本主義国家イギリスが虎視端々と日本をねらいはじめた。このような状況のなかにアヘン戦争のニュースがつたわってきた。当時アジア最強の国家と思われていた清が、イギリス軍の前に敗戦につぐ敗戦を重ねたというのである。この情報を入手しえた幕府や知識人たちは、深刻な危機意識をもつにいたったのである。
 さらに、諸藩における専売政策や新しい農民的流通によって、幕府の流通政策は混乱していた。とくに「天下の台所」大坂の地位の低下はいちじるしいものがあった。また、幕府をささえるはずの旗本達は、貧困に苦しめられ、怠惰な人間が多くなっていたこともわすれてはならない。
 幕府は存続があやぶまれる状況にたちいたったといえる。この幕府を指導し、改革政治を展開したのは浜松藩主水野越前守忠邦であった。忠邦は元唐津藩主であったが、彼は唐津藩主であるかぎり長崎防備の役があって老中になれないことを嫌い、表高は同じであっても実質収入のおとる浜松藩への転出を願い出たほどの人物であり、幕府に対する強烈なまでの危機感と責任感をもっていた。
 彼は、当時の開明派幕吏の代表である江川太郎左衛門英竜や、保守派であるが実行力にたけた鳥居甲斐守忠耀(耀蔵)らをしたがえ、強力な幕政改革を実行した。この政治を天保改革と呼んでいる。たとえば、スパイを巡回させてまでした風俗統制、流通経路の再編をねらった株仲間解散や物価流制、人返し令のような都市と農村の再建策などがそれである。さらに、幕府の強化と対外的危機の問題、広域闘争に対する警備などを意図した上知令を施行するにあたり、改革は頂点に達したのである。
 だが、この上知令は、上知の対象となった村の農民達、旗本さらに紀州藩、老中の土井利位(としつら)などの反対にあい挫折した。水野は、四面楚歌の状況で失脚し(天保一四年)、天保改革はわずか二年で終結してしまうのである。