今までみてきたように、天保改革は、幕藩体制を再建しようとした政治改革であった。それは昭島市域に住む人々にも、多大な影響を与えたはずである。たとえば、商業・高利貸資本として活動していた人々(中野家や指田七郎右衛門家など)にとって、相対済し令や株仲間解散令は重要な意味をもっていたであろう。さらに風俗統制令は、若者達を気づまりにさせ、絹織物の消費低下によって、織屋農民を窮地においこんだとも考えられる。
しかし残念ながら、天保改革を伝える史料で、昭島市域に残存するものは、すべて幕府法令やそれをうけた農民達の請書だけである。昭島市域の史料にたよるかぎり、天保改革が農民に与えた影響はほとんどわからない。ところが隣りの立川市には、柴崎村の年寄をつとめた井上宇右衛門の『見聞記』があり、この中で天保改革にもふれている。そこでこの『見聞記』によって、農民の対天保改革観を考えていくことにしたい。少し長いが、天保改革にふれたところを引用してみたい(『立川市史』下巻七八九頁より引用)。
(天保八年)麦作・稲成大当りニて、直段引下ヶ、作物も満作、上下共安土(堵)思ひなし候、然処、御老中水野越前守様御趣意厳重ニて、諸品直下ヶ為レ致、背物ハ御召捕、女髪結等ハ数多(あまた)御召捕ニ相成、男髪ハ髪元結銭弐拾八文之所弐拾文□ニ直下□置れ、遊女売女迄悉く六ヶ敷(むずかしく)、江戸町遊女場所不レ残潰、……(中略)……是迄之所は誠ニ水野様御制(政)事難レ有事ニ候所、天保十四年卯年秋、水野様御触出ニて、御旗本知行召上ケ、蔵前俵取ニいたし候趣之触、御旗本衆中ハ大騒動、百姓方えは御取箇免上増被仰出、悉く皆難渋之趣願出候所、紀州様御登城被遊、水野越前様御役御免、御旗本衆御知行所前通り、農家免増等も御止めニ相成、皆安土(堵)之思を成す、水野越前守様御勤役中、寅秋未申ノ間より未申之方より白きあらはれて、堅度、四月将軍様日光御社参、三代将軍後初てなり、
史料が示すように、井上宇右衛門にとって天保改革とは、(一)物価統制、(二)風俗統制の強化、(三)上知令とそれにともなう年貢増徴策、(四)将軍の日光社参の四つの政策をさすものであった。そして、物価統制・風俗統制については、「水野様御制(ママ)事難レ有事」と肯定的に評価し、上知令に対しては、否定的態度をとっていたことがわかる。最後の日光社参についての記述は、意味の通じない個所もあるが、評価をさけていたと見てよいだろう。そして、全体的には改革に対して否定的であったといいうるのである。
井上宇右衛門が上知令に反対したのは、それが増免、すなわち年貢収奪強化を包含していたからにほかならない。というよりは、天保改革の意図が年貢収奪にあったことを見抜いたといったほうがよい。そして注目されるのは、「御取箇免上増被仰出、悉く皆難渋之趣願出候」と記述されていることである。すなわち、多くの村々で、上知令にともなう年貢収奪強化に反対する訴願が行なわれたことを示している。このなかに、昭島市域の村が入っていなかったと考えるのは、地理的位置からいって不自然であろう。史料は残存しないが、昭島でもこのような訴願がおこなわれたと考えたほうがよいであろう。
他の地域の動向からおしはかると、井上宇右衛門は、上知令反対のもう一つの要因を書きおとしていたように思われる。じつは旗本知行地の農民は、旗本に去られてはこまるのであり、積極的に彼らをひきとめ活動を展開したのではないかと思われる。
このように指摘すると、本章の処々にある旗本知行地ゆえの困窮をのべた箇所と矛盾すると考えられるかもしれない。この旗本ひきとめは、旗本の善政に感謝してなどということとはまったく異質なものである。それは旗本知行地が上知されると、村々が旗本に対して貸した先納金・御用金などが踏みたおされることをおそれた結果である。旗本が領主でいるかぎり、年貢などから控除することによって貸金が返済される可能性がある。そのために旗本をひきとめたかったにすぎない。
この上知令・年貢増徴・風俗統制等々、天保改革は、昭島市域の農民を気づまりにさせたにちがいない。だから井上は、水野の失脚をきくと、「皆安土(堵)の思ひをなす」と書きとめたのである。
註補
一 山川出版社『体系日本史叢書・生活史Ⅱ』
二 森安彦「幕末期の幕政」(山川出版社『幕末郷土史研究法』)
三 昭島市郷土研究会『郷土研究』第一輯
四 佐々木潤之介他編『日本民衆の歴史5(世直し)』所収青木美智男氏論稿による。