現在中野家の子孫の方々は、八王子市に居住されているが、そこにのこされた史料をもとに考えていくことになる。しかし、残念ながら、その史料は大きな経営をおこなった家としては、量的にかならずしも多くなく、しかも天保期の商業経営と幕末の地主経営に集中している。そこでやむなく、記述もその問題を中心として展開することとなるであろう。
近世初期を除き、代々久次郎と名乗った中野家は、「中久」と通称されていた。その経営の大きさは、「中久大尽」として古老の語り草にもなっている。その一部を紹介してみよう。幕末期、京都紫野大徳寺の料亭で遊んだ久次郎は、その夜祇園芸者を総揚げしたので、関西の商人もおどろいたという。(山崎藤助『郷土研究』による)
中野家の勢力の大きさは、その屋敷にもうかがいうる。屋敷の規模を示す図をみてみよう。明治八年(一八七五)二月、家産を傾けた中野久次郎は、家屋敷を抵当に入れ一六〇〇円を島田八郎右衛門に借りたのである。この図は、その時書類に付された粗絵図からとったものである。
中野家の屋敷図
明治八年といえば、武州世直し一揆後である。一揆は中野家の母屋などを打こわしており、それは結局再建されなかった。図において、点線でおおった部分は、母屋が建てられていたと推定される場所である。(中野和夫氏談)
打こわしの洗礼を受けたにもかかわらず、まだ六ヶ所の「建家」、四ケ所の「土蔵」をはじめとして、三間と二間半という巨大な井戸など、縞仲買・地主として大きな勢力をふるった中野家の姿をほうふつさせるに充分な屋敷である。
残念ながら、中野家の出自や初期の活動についてはよくわからない。山崎藤助氏は『郷土研究』などで、中野家の先祖は武田の家臣であり、主家滅亡後農民となったと主張されている。だが明確な証拠はないようである。文献史料で確認されるのは、もっとも早いので享保一二(一七二七)年の所持高の一部であり、中野家の経営の中心であった縞仲買については、明和三(一七六六)年からしかわからない。中野家の菩提寺である福厳寺に残されている過去帳によれば、貞享二(一六八五)年に死亡した三郎兵衛父を初代としており、現在八王子で生活されている和夫氏が一三代目にあたられる。