史料からうかがうかぎりでは、中野家は以下の五つの方面で活動していた。
(一) 縞仲買を中心とした商業経営
(二) 質店などを通じて、周辺村落の農民・商人、あるいは封建領主(特に旗本坪内家)への金融・高利貸活動
(三) 最終的には、百五〇石以上の土地を集積した、多摩郡有数の地主としての経営
(四) 組頭・名主などを歴任した村役人
(五) 旗本坪内家の勝手賄
このうち本節で考えたいのは前三者である。しかしながら、前三者と後二者を厳密に区別してしまうのは正しくない。後二者は前三者の経営活動を補完していく役割をもっている。たとえば、土地集積をして地主経営を営むうえで、村役人の地位がもった意味をとりあげてみよう。幕藩制社会にあって、土地の売買は原則的に禁止されていた。だが現実には土地の移動は行なわれていたのであり、それは田畑の質入れ-質流れという形式をとる。この田畑の質入れには、村役人の承認を必要とし、文書に名主の判がおされたとき、正式な質地証文となった。このような制度が存在するかぎり、土地移動は村役人を中心に展開することは論をまたないであろう。その他に、年貢納入時の金銭貸借、地頭賄所としての年貢諸役銭の集中など、村役人・地頭賄所として封建権力の末端につながることは、経営発展に有利に働くことが多かった。ただし、危険性もある。明治七・八年に中野家は倒産状況においこまれるが、その一因に地頭=旗本貸金のこげつきがあったなどその例であろう。では、中野家の商業経営・地主経営について、年をおいながら説明していこう。