寛政六年鑑札制度反対一件

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明和三年以後天保期に至るまで、中野家の経営がわかる史料は残存しない。しかし八王子を中心とした織物業は、この期に急激に発達し、八王子市は周辺の市を凌駕する市場として成長してきたのである。このような市の発達は、市における権益をめぐる諸事件を発生させた。それは、特権をもった仲買商である宿方仲買と、新たに仲買活動を開始した在方仲買の間に生じてくる。この諸事件の中には、中野久次郎の姿もあった。在方縞仲買達は、これらの諸事件を克服して発展したのであり、それは在方仲買の一人である中野家とて同様であった。
 中野家に残存する史料の中に、寛政六(一七九四)年五月の請書がある。その全文は、史料編八二に載せてあるので参照されたいが、そこには大略次のようなことが書いてあった。
 八王子の横山宿と八日市宿の二つの宿で、六斎市が行なわれている。その市で絹・太織などの売買がなされているが、よく間違いが生じる。これでは市が不取締なので、今度代官所から焼印の鑑札が下された。今後、この鑑札をもっていないものは、市で織物を買入れてはいけない。また仲買の間で世話人をたて毎年仲買の人数を改めること、さらに、新規に商売をはじめる者は、この鑑札を受けてからでなければならないことを命じられた。これによって間違いがなくなるであろうから、仲買人一同は喜んでこの制度に従いたい。
 もしこの請書どうりになったとしたら、在方縞仲買は大きな打撃をうけたであろう。なぜならば、仲買仲間を統制し、鑑札発行の実質的執行者となる世話役は、従来の慣行からしても、また経営の大きさからしても、宿方仲買から選出されたであろう。そしてそれはとりもなおさず宿方縞仲買に有利に市場運営がなされていくであろうからである。在方縞仲買人は、「縞買共儀者百姓家ニ而農業之手透(すき)等勝手ニ致商売候得者、今日相始メ明日ニ相休候茂有之、定ハ無之」(中野家文書『文政元年八王子市場一件控』)といわれるように、流動性が激しかった。このような人々にとって、営業の許可制は、死命を制するものであるといわねばならないだろう。
 残念なことに、中野家には、この後どうなったかを知る史料はない。そこで、『八王子織物史』上巻に、この事件のその後の経過がのべられているので、それを参考にまとめてみよう。
 先にのべたように、この制度は、宿方と在方の仲買では意見を異にしていた。そのため在方縞仲買達は、初めて宿方仲買とは別に会合を開いたのである。そして、いくどとなく制度廃止の歎願をくり返し、幕府評定所への訴訟も辞さないという姿勢を示した。予想に反した強い抵抗を受けた宿方縞仲買は、在方仲買を説得することができず、ついに代官に新制度廃止を申し入れざるを得なかった。代官もそれに従い、市のしきたりはもとのままとすることで落着した。このように、在方縞仲買達は、宿方縞仲買の市場統制の意図を阻止し、独自の寄合をもつ勢力へと成長をとげていったのである。ただし、代案として買付の場所割(座並制)についての議定がとりむすばれた。それは、市場の西の上座に、八王子の中心的な宿である横山・八日市両宿の代表が出店し、その隣に在方の代表二人、つづいて在方仲買、最後に宿方仲買が並び、商売をすることと決めたのである。しばらくすると、この座並制が問題とされるようになった。それが次にみる文政元年の一件である。