文政元(一八一八)年にも、八王子市をめぐる宿方仲買・宿役人と在方仲買との間に紛争が生じている。この事件については、中野家に『八王子市場一件控』という記録が残されている。まずこの史料から、事件のあらましを見てみよう。(以下史料引用は、この『一件控』である)
事件は、まだ改元されない文化一五年四月一八日にはじまった。この日は八王子市の市日であったので、市に出ていた中野久次郎と宮下村源兵衛は、八日市宿方名主郡蔵から市終了後立ち寄るように言われた。両人が郡蔵宅に出かけると、郡蔵は彼らに大略次のような内容の申し入れをした。
支配役所から最近市場が不取締であるとの通達があった。そこで市場を統制する取極めをつくりたい。八王子市は紬座(縞仲買の活躍する織物市)が「市頭」であるから、まずここから取極めをつくり、追々糸座・古着座・肴座などで取極めをつくりたいというのである。そして取極の内容を以下のようにしたいと言った。
紬座之儀、近年私之致二議定一、座並(ざなみ)等取極(きま)り候ニ付、自然与市立遅相成、往々見世店(みせたな)諸商人共衰微ニ成行候間、此度相改メ、座並在宿共駈付次第、朝五ッ時市立相始メ可レ申
最近、縞仲買が自分達の内部できまりをつくり、座並(市における商売=油単場=の設置場所)を決めた。いつきても場所が決まっているために、だんだん市のはじまりがおそくなり、他の商人たちが迷惑をしている。なぜならば、八王子市は、織物の市がおわってから、その他の市をはじめるからである。だから今度を契機に、座並は市に来た順番-「駆付次第」と表現している-にしたがって、朝の五ッ時(ほぼ午前七時に相当する)から市をはじめるようにしたい。このような申し入れであった。さらにこの時は話に出なかったようだが、新たに縞仲買をしたい人は、宿役人にとどけてから商売をさせるようにしたいという意向ももっていた。
久次郎と源兵衛は、この話を聞いて困惑したに違いない。申し入れを認めれば、彼ら在方仲買は窮地におち入らざるを得ないからである。なぜならば、第一に、「駆付次第」の市立となれば、条件のよい場所は、地の利を生かした八王子にすむ宿方仲買が独占することになるであろうからである。もし、彼らと競争してよい場所を得ようとすれば、前日から八王子に止宿しなければならないが、その経費は馬鹿にならないであろう。第二に、商売をはじめるにあたり宿役人の許可を得る制度を認めれば、あらゆることがらにこの許可権が発動され、結局、縞仲買活動は宿役人=宿方仲買の意向どうりに運営されてしまうであろう。
在方縞仲買達は、四月二六日、五月七日と会合を開き、このような取極めをさせないために話合った。そこで彼らは、反対の理由を明確にした。それは次の三点である。
(一) 座並を決めたのは二五年以前(前述寛政六年の議定をさすと思われる)であり、その間に問題は生じなかったこと。
(二) 市立の遅れの原因を座並決定に求めているが、市立が遅くなったのは世間一般の例であり、上州などでも遅くなっている。だから必ずしも座並を決めたことによらない。
(三) 市立が遅くなって諸商売が迷惑するというのなら、仲間で話し合って五ッ時から市立するようにする。
このような決定を、久次郎と源兵衛に託し、宿役人と交渉させる一方で、取極めをさせないための行動も決めた。それは、(一)宿役人らが取極めを強行した場合には、仲間一同八王子市での商売を休むこと、(二)八王子近村の村役人と協議し、共同行動を行なって宿役人側の動きに対応することの二点であった。
五月八日、在方縞仲買は八王子の山上に一同に会合し、そのあとで市に出ようとした。すでに市ではこの時には、宿方縞仲買だけで場所割をおこなっており、もう市を開くばかりになっていた。そこで源兵衛が宇津木村斧右衛門・平井村七郎右衛門とともに、名主郡蔵のもとに抗議に出掛けたが、郡蔵は病を理由に会わず、横山宿七郎兵衛が話を聞いた。
ところがこの七郎兵衛は、在方縞仲買の抗議に対し、強硬な態度で対応したのである。すなわち、七郎兵衛は次のように述べたという。
御支配様より被二仰付一、市場振合直シ候事故、譬市衰微相成候共、決而無二頓着一、何も相極メ不レ申候而者相済不レ申……其許(そこもと)方駆付不承知ニ候ハゝ、世間より駆付と相見へ候様勘弁出来哉杯被レ申候
これは二つの内容をもっている。一つは宿役人の背後には支配役所がついているのだという特権意識の誇示であり、二つには、縞仲買になりたい者はほかに大勢いるので、不承知ならば在方縞仲買は締めだされてしまうというのである。
宿役人と宿方仲買達が、強硬な態度に出、市の場所割を宿方のみで極め、在方仲買を締め出した結果、両者の対立はぬきさしがたいものとなった。在方仲買達は、先の約束に従い、以後の八王子市へは一切出ないという商店ストライキを決行した。同時に、周辺農村の農民達の同意を得ようと努力した。
在方の仲買の呼びかけに対し、周辺農村は積極的にそれに応えていった。史料は農民達の行動や意識を次のように伝えている。
近来宿内繁栄故、宿役人権威増長致、難二心得一事共種々有レ之、在方一同気請不レ宜候、此節在方縞買中外市罷出候ハゝ、織屋も其振合ニ取斗可レ申
あるいは、
在方縞買中商売被二相休一候而ハ甚及二難儀一候間、外々江市立致被呉候様仕度候、然上ハ村々小前江申聞、八王子両宿ニ而小買物迄為レ致不レ申候、此上両宿致二屈伏一、相詑候ハゝ格別、於レ無レ左者何ヶ年茂出方商人江致二同服一、互ニ渡世相成候様
このように農民(織屋でもあるわけだが)たちは、在方仲買に完全に同意し、小買物まで八王子を利用しないというボイコット戦術をとったのである。そして、宿役人や宿方仲買が屈伏するまで争うことを宣言した。
とくに注目したいのは、周辺農村の農民達が、積極的に八王子以外での市立を要請していることであろう。そしてこれは現実のものとなった。五月二二日、平井村治郎右衛門が源兵衛の所に来て、平井村の市へ縞仲買が出てくることを要請したのをはじめとし、同二五日には伊奈村から、六月四日には相模国久保沢村から同様の要請が在方縞仲買によせられたのである。八王子市場から締出された結果となった在方縞仲買達は、これらの要請に積極的に応えていった。なお、在方縞仲買と共に積極的な行動を起した村は、戸吹村・宇津木村・小田野村・小引村・元八王子村などであり、その中心人物は、名主が多かったことを指摘しておこう。
宿方と在方の関係が、こうまでこじれてくれば、幕府に訴え出る以外ない。正確な日時は不明であるが、五月中に八日市宿名主郡蔵と横山宿名主七郎兵衛の代理である年寄三郎兵衛は、宮下村源兵衛、平井村七郎右衛門、宇津木村斧右衛門を相手に、「市場仕来相破候出入」の訴状を提出した。それに対し被訴訟人らが返答書を提出し、ここに事件は幕府評定所が取り扱うところとなったのである。
この訴状にみられる両者の見解は、すでに説明したことでつきている。ただ、すでに平井村の市へ仲買が出掛けており、この市が旧来からのものであるのか、それとも新規の市であるのかが新たな争点としてとりあげられていることだけを付言しておきたい。
六月一二日から、幕府評定所において当事者五人が審問をうけた。その審問は、(一)平井村の市、(二)仲買人の宿役人への届出制、(三)市立の遅れの三点にわたりなされた。当時の慣行通り、幕府評定所は直接に採決を下さず、当事者同士の再度の話し合いで解決するように命じた。このような当事者同士の話し合いで解決することを内済(ないさい)と呼んでいる。
両者は、扱(あつかい)人(仲裁人)に江戸瀬戸物町嶋屋作右衛門を立て、内済談合に入ったが、難行が予想された。ところが、この間に八王子市側に大きな変化があらわれたのである。六月一九日、周辺農民の中でも宿方に加担していた中野村・谷野村の名主達と、八王子の商人倉田屋らが江戸に出てきた。彼らの出府は、郡蔵らに妥協するよう説得し、内済を成立させることを目的としたものであった。
なぜ八王子側が積極的に内済ですませようとしたのかについては、史料には「宿方殊之外致二混雑一」としか書いていない。ただ、在方仲買達が周辺の市に出ていき、また周辺農村の農民達が織物を市に出さないばかりか、小買物さえしないという一致したボイコットにあって、八王子市そのものが衰徴してしまったことを推測してよいと思う。このボイコットにあたって、市側が屈伏せざるをえなかった。
六月二五日、両者の間で済口証文(内済内容をまとめた証文をいう)がとりかわされた。先に屈服したのが市側であったので、その内容は在方縞仲買の全面勝利であった。それは以下のとうりである。
(一) 縞市は朝五ツ時から始め、外の商売のさまたげにならないようにする
(二) 座並については、寛政六年に決めたことに従う
(三) 新たに仲買を始める場合も、今までどうり在・宿の仲買仲間世話役に届けるだけでよい
(四) 平井村などの市は、新たに縞市をたてたものではないから、正規の市である
この済口証文が、七月二日に評定所で認可され、二ケ月にわたる事件は解決したかに思えた。しかし、この事件を契機に、新しい問題がうかびあがってきたのである。
それは、在方縞仲買達が訴訟の余勢をかって、市に払うべき「見世賃」の額が高いことを問題にしたのである。この行動には、青物商・穀商・古着商なども共同行動を起こした。史料には、次のように残されている。
此節砂川辺村々茂寄合相談有レ之、盆前横山宿名主江口銭其外非分之儀有レ之、問屋中取斗難二心得一旨及懸(合欠カ)候由、七月十三日より青物類一向差出不レ申、稲毛領より茂穀問屋非分申立、出荷物差留、古着商人茂外市場与致二相違一、刎銭・見世賃多分ニ而難渋之旨以二書付一宿役人江懸合ニ及候由
さらにもう一つの問題は、在方縞仲買と織物生産農民が八王子をボイコットした結果、周辺の市が急速に発展し、八王子市との間で仲買商のとりあいがはじまったことである。とくに相模国久保沢と原宿の市は、津久井地方の織物生産を背景に、急速に発展をとげていた。
宿役人や宿方縞仲買は、はっきりと守勢にたたされたのである。とくに後者の問題が発生したことによって、在方縞仲買と妥協し、多くの仲買と織物を集めねばならなくなった。宿役人の中には、訴訟の中心人物であった郡蔵のように、再度の訴訟を起こすべき準備をし、在方縞仲買に「喧嘩」をしかけかねない人物もいたが、大勢は妥協に向かわざるを得なかった。その為「見世賃」等の引下げも早期に妥結している。
在方縞仲買達は、久保沢・原宿の市と八王子の市の間でくりひろげられる仲買人争奪戦に対して、最初は次のような態度を示していた。
私共之儀者、織物沢山ニ出候最寄ニ而商売致候事故、御頼無レ之候而茂、代呂物さへ出候得者致二出市一候
すなわち、どの市に出るかは、織物の数次第であるというのである。
しかし結局彼らは、久保沢・原宿の市を捨てて、八王子を中心に活動することとなった。それは、(一)市は近いほど有利であること、(二)八王子市の復活によって、久保沢・原宿の市が漸々衰退に向かっていたこと、(三)宿役人や周辺農村の村役人らが、「武州之国益を被レ思、久保沢市を裏とし、八王子市を表とし、追々先規ニ立戻候様被レ致」と懸命に説得を加えたこと、などによるのである。翌文政二年になると、八王子の在方縞仲買が出市しなくなったため、久保沢・原宿の市は完全に衰微してしまった。
ここに文政元年八王子市座並一件という事件は終了した。在方縞仲買達は、再び八王子市で商売をはじめた。しかし、その彼らは以前の彼らではなかった。宿役人や宿方縞仲買を屈服させ、有利な条件で議定を結ばせた自信を背景として市に出掛けていったのである。