寛政元年と文政元年に生じた二つの事件を、簡単にまとめるとどうなるであろうか。この二つの事件は、宿役人と在方縞仲買の対立という形で進行している。だが実際は、宿方縞仲買と在方縞仲買の利害の対立が事件の本質であったこと、そして宿役人の立場は宿方縞仲買の意向を代弁しながら活動したことは容易に気づくところであろう。
では宿方と在方の縞仲買の対立とはどのようなものであったのだろうか。
まだ織物業がそれほど発展していなかった時期には、仲買人の数も少なかったし、宿に住む専業の仲買人(宿方縞仲買)達が、周辺農村から織り出された織物を、八王子市で買い入れ、それを江戸の商人(十組問屋商人)に売っていた。ところが、織物生産の発展に伴ない、新たに織物仲買に目をつけはじめた人々がいた。彼らは多く、周辺農村の上層農民であった。このような人々を在方縞仲買と呼ぶ、彼らは市で仕入れた品物を、宿方縞仲買と同様に、江戸の商人に売り捌くのであるが、十組問屋商人らは多く宿方縞仲買と契約を結んでいたから、そこばかりでは売り捌きえず、問屋外の小商人と商売をしはじめたのである。
この新しい流通経路の成長によって、地位をおびやかされはじめた宿方縞仲買達は、この経路を排除・統制しようとした。彼らは宿役人はいうまでもなく、市銭を支払ったりする関係から代官らと深く結びついていたので、その力を背景として新しい経路を統制しようとしたのである。両事件とも発端は、代官所から市不取締の命令が出されたことによることを思い返してほしい。
代官・宿役人と結合した宿方縞仲買に対して、在方縞仲買達は仲間に周辺農村の織物生産農民を選んだ。農民達が在方縞仲買と連合するのは、彼らと同じ村の人間であったことにもよるが、それ以上に次の理由からである。すなわち、織物生産農民にとって、買い手の数が多ければ多いほど、また売る機会が多ければ多いほど、有利な価格で売り捌けるからである。文政元年には、彼らのほうから積極的に新規の市立を要請したのであった。
こうして代官・宿役人・宿方縞仲買と在方縞仲買・織物農民という対立が形成された。そしていうまでもなく、新たな生産・流通のにない手は後者にあったのである。そして、後者の手により生産者主導の価格が形成されたのである。
またこの一連の事件は、在方縞仲買達が、「仲間」という同業者組織を形成し、発展させる契機ともなっていることに注目したい。ところで、在方縞仲買と織屋農民の連合は、そう長つづきはしなかった。両者間の対立は天保期に顕著となるが、その点は後述したい。
最後に、これらの事件における、中野家の位置を確認しておきたい。それによって、在方縞仲買というグループの中にある中野家の位置がわかるであろう。
中野家の位置をよく示すのは、文政元年における事件の発端と終結が、中野家を中心としてなされたことであろう。すなわち、文政元年の事件は、四月一八日、宿役人によって中野久次郎と宮下村源兵衛がよびだされたことからはじまり、七月七日、中神村の中野家において、在方縞仲買の会合が行なわれ、済口証文が承認されたことで実質的に終了したのである。このことは、中野家が在方縞仲買の代表者としての地位にあったことを示している。
しかしもう一つ注目しておかねばならないことは、事件が発展してくると彼の姿が消えてしまうことである。源兵衛や斧右衛門らが中心となって周辺農村の農民を説得したのだし、被訴訟人も彼らである。それに比較すると久次郎は事件に積極的ではなかったらしい。なぜなのであろうか。
それは彼の経営の性格からきていると推想しうる。すでに見たように、彼は明和期には仲買活動が確認されているように、在方縞仲買としては古い歴史をもっていた。当然のことながら、早くから仲買をはじめた彼は、八王子市において宿方仲買に次ぐ地位をきづいていたであろう。とすれば、あまり多くの新規仲買が入り込むことは、宿方仲買と同様に好ましくなかったに違いない。彼は在方縞仲買として、宿方縞仲買の市場独占には反対したものの、在方縞仲買の大勢には従いきれない、中途半端な立場に立たされたのではなかろうか。寛政-文化期の中野家のこのようなものと一応推論して、次に天保期の経営分析に入りたい。