『諸用日記控』にみえる中野家の商業活動

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まず商業関係についてみよう。『日記』の過半はこれについやされている。商業活動の中心は、八王子・青梅の市へ出かけることと、江戸に行くことである。すなわち、青梅・八王子の両市で縞を中心とした織物を買いあつめ、それを江戸の商人へ売り捌くのである。一度の商売の規模についての記述はないが、市へも江戸へも普通は息子・奉公人が三~四人で馬一疋をつれて出かけており、運搬する織物の量は、馬疋がふりわけに積んではこぶ量を越えていないと推定される。(特に大きな商売をする時は、馬四、五疋をつれていく場合もある)ただ、実に頻繁に往来しているから、その扱い総量はかなりなものとなろう。商品運搬に使用する馬は「内馬」(中野家の所持馬)の場合と、「雇馬」の場合の双方あり、使用度数もほぼ同じである。馬の雇い先はほとんど固定している。
 しかしながら、中野家の商業活動は、青梅・八王子の両市と江戸を結ぶだけではない。まず江戸以外の売り捌き場所を見てみよう。天保五年八月二三・四の両日、中野家は八王子に馬を送っているが、それは江州荷のためであるという。すなわち、彼は江州商人をも顧客としていたのである。また天保三年の『日記』は、紀州大井某・上州布袋や半右衛門・同松兵衛・仙台ならや作兵衛・伝兵衛の五人に年始としてのり二丈を送っている。彼らが顧客であったからであろう。
 つぎに仕入れ先をみると、青梅・八王子の両市のほかに、所沢・五日市・飯能・新町の諸市に出かけていた。所沢からは雑穀を、五日市からは木材を仕入れていた。五日市で仕入れた木材は、筏を組み多摩川を流して来て、中神周辺(場所不明)でおろしている。しかもかなり頻繁におこなわれており、彼の商業経営のなかで、比較的高い位置を持っていたことがわかる。飯能・新町からの仕入品目についての記述はないが、織物ではなかったかと推測される。
 ところで天保五年一二月九日の「稲本両人郡内行、一二五両渡ス」という記述があることに注目しなければならない。この記述は、稲本という人物が郡内に行く用があり、彼らに郡内の織物の仕入れを依頼したと考えることができるのではないか。とすれば、中野家の仕入れ範囲は、郡内地方まで広がっていたことを意味する。また稲本とか福本とか称する屋号を持った商人らしき人々が、頻繁に中野家に出入りしており、彼らの一部は、中野家に織物を持ち込んだのではないだろうか。この想定が許されるとすれば、中野家と生産者農民との間には、数名の買次商人が存在したことになる。なお、市や買次商人を通さず、生産者農民が直接織物を中野家に持ち込むルートは存在しなかったようであり、記述はない。
 これらの商業活動は、中神村の本店を中心におこなったものであるが、このほかにも江戸石町に江戸店があった。江戸店の役割については明らかでない。久次郎は旗本の用で江戸に出たときは、かならず石町の店により、「調物」をしている。さらに天保五年には、八王子にも店を開く計画があった。一三五両で八王子の地所を購入し、店を開こうとしたのであるが、条件がおりあわず成功していない。この後八王子に店を持ったことは明らかであるが、八王子店の開設年・規模・役割などわかっていない。