村役人としての仕事

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中野久次郎は、中神村坪内領の名主や組頭役を勤めていた。この村役人の仕事も忙がしく『日記』のなかでかなりの比重を占めている。
 中神村には三組の村役人がいた。中神村は坪内と曾雌の二給の村落である。その他に少量の新田を江川代官が支配していたが、曾雌に預けられている。曾雌・坪内の支配領域ごとに村役人がいるのが普通の形態である。にもかかわらず三組の村役人がいたのは、曾雌領が二分されていたことによる。古くからの共同体慣行を尊重した結果であろう。
 各組の村役人は、それぞれの組を責任をもって支配すると共に、村全体にかかわる問題は共同で事にあたった。その責任者は月番となっている。天保五年は、三・六・九・一二月が久次郎の月番であった。組合村惣代・尾州鷹場・取締出役、あるいは日野宿助郷惣代などから来る布達は、この月番名主が処理することになるが、重要な仕事は三組の村役人が惣寄合をもって決定している。この村役人の寄合でどのような事が話されたのか、九月一九日の頃に議題が書き残されているので紹介しておこう。ただしこの日は、村役人の惣寄合ではなく、名主三人の寄合であった。
   九月十九日名主斗寄合内談事仕候△恵日庵之事△寺つりがね堂の咄し事△村山花会之事△村ひろめ祝儀事△年貢延行夜分断之事△石橋石敷車引可申訳之事△分金割合之事、開発石橋之事△獅々入用之事△日野伝馬廿九日之事
 このように、村役人達は、村のこまごまとした日常生活にまで責任をもつものであるが、もっとも重要な仕事は年貢関係であることはいうまでもない。とくに定免制と石代納という納入方法が確立している昭島市域の村では、金納直段の決定が最重要事となる。久次郎は、天保五年一一月に旗本坪内から江戸屋敷への出頭を求められた。金納値段を決定するためである。だがその交渉は難行をきわめ、金納値段が決定するまで四日間も費している。文政一一年の場合は、一度は会談が決裂するにまでいたっている。(詳細は本章第四節参照)
 以上中野家の活動を、三点にわたてみてきた。この他にも、興味深い事実はかなりある。たとえば、天保五年四月二六日に村寄合を開いて米穀を供出したことや同年六月二日に下男二人が出奔したことなどである。あるいはかなり頻繁にある「一日正月」なども生活習俗としては興味深い。しかし、それらの記載は、簡単であり、その背景などを充分に調べることができなかった。
 この『諸用日記控』は、経営や生活の様式は判明するが、その質をあきらかにすることができない。そこで次に『店卸帳』などから、中野家の商業経営の質について考えていきたい。