店卸帳からみた経営の変化

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今まで店卸帳の各項目を検討することによって、天保期における中野家の経営形態を静態的に見てきた。しかし、一口に天保期といっても、一四年間あり、しかもその間に天保飢饉という大きな社会問題が存在する。幕藩制社会は、この天保飢饉によって大きく変動したのであるが、それは中野家の経営にもなんらかの影響を与えたであろう。そこで、一四年分ある店卸帳から経営の変化を見ていこうとするのが、本項の課題である。その為に第7表を作成した。

第7表 天保年間中野家店卸表

 表からわかる第一の点は、天保七・八年の両年を除き、百両から四百両余までの利益をあげていたことである。この両年が赤字であった要因は、すでに「仕入金」を説明するにあたって指摘した。それは地頭への上納金や村方への救済金と、田畑購入費の増大にあった。前者は別として、後者の場合は、土地という安定的な資産を護得したことにあるのだから、この数値から経営を不安定と見ることは正しくないであろう。なお、この田畑購入は、当然ながら小作料の増収をもたらすが、この小作料については「店卸帳」にはあらわれない。この点については後にまとめて問題としたい。
 次にこの天保期の経営は、安定的だっただけでなくほぼ順調に経営規模を拡大していったことが判明する。すなわち、天保二年当時約四五〇〇両であった店資産総額が、同一五年には約七五〇〇両にまで成長している。もちろんこの間には、天保の貨幣改鋳などがあり、貨幣価値の低落現象が生じており、それを考慮する必要はあるものの、発展する姿としておさえうる数値であろう。
 しかし、この発展の中で経営の質は変化しつつあった。先に中野家の経営は、縞仲買と高利貸活動を二本の柱として成立していることを見た。この両者の変遷と全体に占める割合を考えることで経営の変化を見てみたい。
 縞仲買経営を表わすのが「付立方」のうち現金をのぞいたものと「絹方」であり、高利貸活動を示すのが「金貸方」である。そこで、まず第一に、それぞれの項目の変化を、天保二年時を一〇〇としてグラフにまとめた。

中野家縞仲買・高利貸経営の変化

 「絹方」および「付立方」の現物は、ともに天保二年以降低滞しており、六年と八年は最低におちこんでいく。その後、一〇年から増加に転じてはいるが、動揺が激しく、安定的数値を示していない。一方「金貸方」は、六年に約二倍、質方を含めた場合で一・五倍に成長し、その後も安定的に増加していっている。
 天保六年から八年が、中野家の経営に一画期となることは、縞仲買と高利貸の総資産に占める割合からもうかがうことができる。天保六年に、はじめて高利貸部門が縞仲買部門を越え、以降この傾向が一般的な形となっている。
 このように「金貸方」の金額が増加してくると、中野家の考え方もそれにつれて変化してくる。そのあらわれが、「店卸帳」の記載方式に出てくる。「店卸帳」は、先に説明した項目順、すなわち、付立方・絹方・有物付方・金貸方・その他となっていた。ところが天保一四年には、現金のあとにすぐ金貸方が記述され、以下付立方の現物・有物付方・絹方の順になるのである。これは金貸方を店のなかで最も重要なものと意識した結果であろう。
 ところで、このような金貸方の増加に対して、天保九年から質店の営業を休止したことは一見矛盾しているかに思われる。この質方の休止は、質営業を休止したことを意味するのではなく、逆に質営業が発展するにともない、質店を一部門にとどめておくだけでは責任をとりえなくなり、店全体が質営業に責任をもつ体制に変化したと推測しえないだろうか。
 この「金貸方」は、たんに金額を増加させたばかりではなく、その内容も変化したのである。表は、各年の貸金を、金額別に分類したものである。第8表は、年々少額な負債者の増大を示している。その理由の一つは、質店を「金貸方」が吸収した結果であろうが、少額負債者の絶対数も増加したと考えうる。このような少額負債者は、中神村とその周辺の農民に多い。比較的高額なのは、商業を営む在町の商人や村の豪農であろう。中野家は前者に金を貸すことが多くなったのである。

第8表 金貸方の推移

 以上、天保六年から八年を画期とした「金貸方」の増大と、縞仲買の停滞、そして十年以降も容易にはたちなおりを示しえなかった縞仲買活動ということを確認してきた。ではなにゆえにこのような現象が発生するのだろうか。それは、天保期の経済を大きくゆりうごかした二つの事件、すなわち天保飢饉と天保改革をぬきにしては考えられないだろう。
 天保飢饉は二つの点から、縞仲買活動を停滞させた。第一に、冷害である天保飢饉は、桑の成育に影響を及ぼし、織物の生産量を減少させることとなった。第二に、飢饉状況下では、多くの人々は生きる為にせい一ぱいであるので、織物を買う余裕はなかった。供給も需要もともに減少せざるを得なかったのである。これに対し、飢饉は高利貸活動を活発にする。すなわち、飢饉状況下の異常な物価上昇は、周辺農村の農民を疲弊させ、金銭貸借を活発にするからである。このようにして、中野家は好むと好まざるとにかかわらず、縞仲買の停滞と高利貸活動の急増という問題に直面せざるをえなかった。天保一〇年には復活の傾向を示した縞仲買活動であるが、それが順調な伸びを示さず、とくに一四年に大きく落ち込むのはなぜであろうか。二つの要因が考えられる。その第一に天保改革の影響があげられる。先にのべたように、天保改革は徹底した風俗統制をともなっている。とくに江戸では、町奉行鳥居耀蔵のもとで、スパイ政治が展開され、絹の呉服類はとくにとりしまりがきびしかった。このため絹織物の購売力が急激に減少した。八王子を中心とした織物業は、下級のものが多く、また木綿もとりあつかっていたため、壊滅的な打撃こそまぬがれた。しかし、飢饉後の購売力回復を期待していた人々にとっては、かなりの打撃となったことは疑いない。中野家もその一人であったのである。
 第二の要因は、八王子市場の変化である。天保期に入ると八王子市に持ち込まれる織物のなかに、糊入り織物が多く見うけられるようになった。これは織物生産者が、反物の目方をごまかすためにとった手段である。それは、八王子織物の評価を低下させることとなるので、縞仲買達はこの糊入り織物を極力おさえようとした。天保七(一八三六)年、同一一年と二度にわたり、糊入り織の禁止をうたった議定がむすばれている(史料編八四・八五)。
 しかし、この議定がまもられたとは考えにくい。天保七年に結ばれた議定を、一一年に再度結びなおさなければならなかったのがその証拠となる。縞仲買が主導したこの議定が、織物生産農民によって無視されたということは、とりもなおさず彼らの市場統制力がなくなっていたことを意味する。
 かって織物生産者農民とともに、宿方縞仲買の市場統制を阻止するために闘った在方縞仲買は、今は宿方とともに織物生産農民と対立するようになったのである。
 このように、在方縞仲買達は、天保後半期に一大転換点にたっていたといえる。それは経営の動揺をも意味している。中野家もその例にもれない。この動向は、開港以降重大な問題となっていく。