土地集積の過程

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本項は、中野家の地主経営をみていくことを目的とする。そのためにはまず第一に、土地集積の過程を確認することが必要である。そこで第9表を作成してみた。先にみたように、中神村は三組にわけられ、それぞれの村役人が独自の書類を作成しているために、村全体の土地保有状況を知るのは容易ではない。だがしかし、曾雌領一八六石組の久次郎「小前帳」は、比較的残存度がよいので、所持高の変遷をこの組を中心にみていくことにしたい。しかも中野家の土地保有状況は、寛政以降の例からみて、三組に平均しているので、曾雌領一八六石の数値を約三倍すれば、村全体の所持高に近いものがえられる。

第9表 中野家土地所持量の変化

 中野家の所持地・高が明確となるのは、享保一二(一七二七)年からである。この年曾雌領一八六石組において、約一町五反、高にして九石ほど所持していた。先の原則に従えば、村全体の所持地は約五町、三〇石あり、すでに村内有数の地主になっていたといいうるだろう。だが三〇石程度の所持高では、まだ本格的に小作人を多数使用した地主とみることはできず、手作部分を多く残した名田地主的存在といってよいだろう。この状況は所持高に関するかぎり、寛延三(一七五〇)年までつづいている。
 村全体の中野家所持高が判明するのは寛政期(一七八九~一八〇〇)である。面積にして一〇町歩余、石高で六〇石近くにのぼり、中神村の全耕地面積の一割をしめている。ここにいたり、中神村の地主としての中野家の地位は、確固たるものとなったとみてよい。このような土地集積をなしえた理由はなんだったのだろうか。要因は二つ考えうる。第一の要因は、明和年間(一七六四~七一)にはすでに縞仲買活動を営んでいたことが確認されており、その経営が順調であったためである。第二の要因は天明飢饉である。ところで寛延から寛政までは約五〇年あるから、単純に年平均すれば約三斗でしかない。この年平均集積量は、天保前半期(表では七年)までつづいており、急激な変化を示すのは天保後半期である。
 天保一三年に中野家は文兵衛を分家させるのであるが、にもかかわらず嘉永三(一八五〇)年の所持地は、約二三町、石高にして一三五石余にまで達している。これは中神村の全耕地面積の約三割を占める。ではなにゆえに天保後半期にこのような土地集積が可能だったかを問題にしなければならないが、後述することとし、所持地の変化を最後までおってみたい。
 天保嘉永期以降も、土地集積を進めたと考えられる。曾雌領一八六石組における文久二(一八六二)年の所持高は、約四一石あり、嘉永三年に比し一〇石程増大している。増加率は減少しているものの、集積の絶対量はほぼ同様であった。このように、開港以降も土地集積を進めていたにもかかわらず、明治五(一八七二)年の所持地と嘉永三年のそれを比較してみると、ほとんど変化がない。ようするに開港以降の土地集積を、ほとんどはき出していたのである。この減少の理由は本節五項でみていくことになろう。
 最後に、中神村以外での土地集積をまとめておこう。第10表がそれである。宮沢村・築地村で土地を集積していることがわかる。だがそれは決して大きな数値ではない。中野家は、広範な商業活動の展開にもかかわらず、土地集積は、中神村にほぼ限定されていた。

第10表 中野家他村土地集積