天保-嘉永期の特徴

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中野家の土地集積過程を簡単にみてきたわけであるが、その地主経営形成のうえで決定的な意味をもっているのが天保-嘉永期であることが判明した。そこで、天保-嘉永期の持つ問題を簡単にまとめてみたい。
 天保期の土地集積を具体的に考えるにあたって有効な史料は、嘉永三年の「田畑控帳」である。この史料は、土地の入手した時期と、元の地名の記載がある。この史料から時期別に土地集積の状況をまとめ第11表にしてみた。ただしこの表は、天保一三年に分家した文兵衛にわたした分をも含んでいる。

第11表 中野家天保年間土地集積表

 中野家は、天保-弘化年間に、じつに七三石という多量の耕地を収得している。とくに、天保六年から九年の四年間に、三二石余が収得されていることは重要である。これは、天保飢饉と密接な関連をもっている。天保飢饉は、天保四年と七・八年という二つのピークをもっている。すでに最初のピークで土地を手ばなさねばならない農民が出現していたが、その状況なんとか越えることができた農民も、七年の不作によってついに田畑を手ばなさざるを得なかったのである。
 次に、天保期の土地集積は、組により不均衡であることを指摘したい。すなわち、坪内領において天保六年以降四〇石余の土地を集積しているのに対し、曾雌領のそれは、二組合わせても三〇石を少し越える程度であった。このことは、これ以前ほぼ均等に土地を集積していたことに比してきわだった特微である。これは、天保期急速に旗本坪内と共生関係を結んだ結果であると考えられる。
 彼は中神村きっての高持であり、有力農民であった。にもかかわらず、彼は長いあいだ組頭役にとどまり、名主にならなかった。それが、正確な年は不明だが、文政末年から天保初年の間から名主をつとめるようになった。さらに天保飢饉後は、より積極的に旗本坪内に接近した。それが天保一〇年代(史料的初見は一四年)の地頭賄所就任である。
 先にのべたように、名主役や賄所は、土地集積を行なう上で有利な立場である。それで坪内領の集積率が高まったのであろう。
 つぎに中野家はどのような人々から土地を集積したのか、また土地を手ばなした人はどのような状況になるのかを考えたい。このことを考えるために、先の嘉永三年『田畑控帳』から第12表を作成した。

第12表 中野家天保期土地集積個人別表

 まず第一に、四七人もの人々が中野家に土地を譲渡しなければならなかったことに注目したい。明治五年における中神村の百姓家数は一〇五軒であるから、四七人といえば約四五%に相当する。
 譲渡せざるをえなかった人々は、二つに区分しうるであろう。その一は、すでに零細な経営であったものが、天保飢饉の打撃で、その零細な耕地をも売る場合である。表で一石末満の土地を譲渡した大半は、このような人々であったと考えられる。そのよい例は、清蔵という人であろう。彼は屋敷地を中野家に譲渡している。いうまでもなく屋敷地は、農民にとってもっとも重要な土地である。一軒前の百姓であるかどうかは、屋敷地を所持するかいなかによっている。にもかかわらず清蔵は、この期屋敷地のみを売りに出したのである。このことは、すでに彼は屋敷地のみしか売りえない状況、すなわちすでに耕地を喪失している状況にあったことを示している。屋敷地を譲渡しているもう一例は粂右衛門であるがこの粂右衛門については後述したい。
 ところで、天保期に中野家が土地集積を行なった対象として、注目されるのは、このような零細農民ではない。自作農として村落の中堅に位置していた村民が没落し、中野家が彼らの土地を集積していたことが重要である。それが二石以上層の十四人である。二石から三石ほどを所持していれば、多摩郡の畑作地帯では中堅の農民である。その中堅農民となるに必要な耕地を一時期に手ばなしている人々が十四人もいた。この代表的な事例として三左衛門がとりあげられる。彼はこの期五石四斗余の田畑を中野家に譲渡している。彼のこの期の持高を正確に知ることはできないが、少なくとも五石四斗以上を持つ自作農であったこと、しかも、その経営の中枢ともいえる土地を手ばなしたことは明らかである。彼は、この後どうなったであろうか。明治五年の戸籍によれば、持高はわずか二斗余に減少し、しかも家族全員が八王子の借店に居住する、いわゆる半プロレタリアといわれる階層に属しているのである。彼と同様な例は、伝左衛門や小右衛門にもみられる。伝左衛門は一町一反余・石高四石八斗弱を譲渡し没落していった結果、明治五年にはわずか二斗余しか所持していない。四反余・石高二石二斗を譲渡した小右衛門の明治五年の所持高は二斗五升余である。しかもこの小右衛門は、三左衛門と同様に家族全員が八王子借店に居住している。
 中野家の土地集積は、村落中層の農民にとどまらず、村役人層にまで及んでいた。八斗余を譲渡した徳太郎は組頭を勤めていた。この村役人層の一部が没落し、中野家の土地集積の対象となっていることの代表的事例が粂右衛門である。彼は屋敷地まで譲渡せざるを得なかったことは先に確認したが、全体で一石二斗余りを売りわたしている。
 粂右衛門は、かって名主役を勤め、宮崎という姓を名乗ること、また旗本曾雌の地代官さえ勤めた中神村でも最有力の農民であった。それがいかなる理由かは判明しないが経営をいきづまらせ、天保七年には組全体の年貢を不納してしまったのである。彼はこの年貢不納をつぐなうために、残った耕地・家屋敷・家財を六両余で売り払い、他の村役人の援助をもうけることによって一部を返済した。中野家が粂右衛門の田畑を購入したのはこの時であった。
 天保期における中野家の土地集積は、一部村役人層を含む中層農民を主たる対象としたものであることを見てきた。では、この中層農民の没落は、中神村にどのような変化を与えることになるのであろうか。少し時代が下るが、明治五年の中神村持高階層表からたしかめてみたい(第13表)。

第13表 明治5年中神村階層構成表

 まず第一に中野・原茂両家が、全耕地の四割以上を占めていることが注目される。とくに中野家は、一軒で全耕地の三分一強を所持していた。それに対し、村民の約半数を占める一石末満の零細経営農家は、耕地の四パーセントを所持しているにすぎないのである。このように、幕末・維新期の中神村は、巨大な地主と零細な農家に二分されていたが、その始点は、中層農民の没落が激しかった天保期におくことができるであろう。