いままで見てきたように、縞仲買としてまた地主として、大富豪に成長した中野家であったが、明治期に入るとともに急速に家運をかたむけていった。そしてついに明治七(一八七四)年には倒産状況におちいり、債権者や親類達があつまり、経営の再建を話しあうにいたったのである。この会合によって、再建の後見人となった親類惣代が、各地の債権者に送った書簡の控が『仕法会議出翰控』として中野家に残されている。そのうち、近江(滋賀県)の稲本利右衛門と大阪の稲西正兵衛に送った書簡から、中野家がおち入った状況を見てみよう。(書簡全文は史料編九〇)
書簡は、まず中野家が窮地におちいった理由を、次のようにのべている。
祖父并父久蔵死去之後、御存之通り打毀(うちこわし)其外種々之不仕合引続キ候而己(のみ)ならず、家事不取締故、連年不手廻リ相成候
祖父の八代目久次郎が死去したのは、慶応元(一八六五)年七月であった。つづいて九代目久次郎事久蔵は、そのわずか半年後の慶応二年正月になくなっている。さらに一一代目久次郎が家督を相続したばかりの慶応二年六月、武州一揆に参加した下層民によって家屋敷を打ちこわされたのである。「不仕合打続キ」とは、これらのことをさしているのである。
ところで、二人の債権者が、中野家の経営を問題にしはじめたのは、この年七月である。彼らは、手紙を送って経営の改善をもとめたが、中野家は「存外之大借財故、彼是因循仕居」という状況であった。これが経営を一層悪化させることとなった。そこで、親類や一部の債権者達が会合し、当面の対応策を話しあった。
そこで決められた再建案は、
(一) 今後の仕入を円滑に運営するために、市場借財(後述)を優先的に返済する
(二) そのために、二・三回の市は、仕入を停止し、払方のみを行なう
(三) この再建案が実施されている間の仕入は、八王子買次仲間の名目を借りて行なうこと
(四) 店奉公人をひとまず解雇すること
の四点であった。この再建策で一一月二八日と一二月四日の市にのぞんだが、借財返済のめどをたてることはできなかったのである。二人の債権者は、ここに到り中野家を見限る決定をした。史料は次のようにのべている。
右様市場借多分残金有之候而者、縦令(たとえ)名目相替り候ても、是迄之召使ニては、御出市相成兼候
二人の債権者は、買次の権利を中野家からとりあげ、所沢の油屋(向山)小平次に移すことを決定したのである。油屋小平次は、権限の継承を受けいれ、中野家は顧客を二人失なったのである。以上の経過を親類惣代岡本平兵衛と土屋勘兵衛が、稲本・稲西の両家に報告したのが、この書簡である。