この書簡によって中野家のおちいった窮状がうかがいえた。ところで、書簡にも「存外之大借財」とあるが、明治七年当時、中野家はどのぐらいの借財をかかえていたのであろうか。明治七年一二月の「諸方借方書抜帳」からみてみよう。
まず、四万両余という金額の多さにおどろかざるを得ない。借財は二つに大別しうる。すなわち、市方借財と都市商人借財である。先にみた書簡のなかで、優先して返済しようとした「市場借財」とは「市方借財」のことであろう。「市方借財」は、八王子市場と密接なつながりをもつ村の人々への借財であった。とすれば、この借財は、中野家が市で仕入れた織物の代金であると見てよい。たとえば、大神村の中村半左衛門に、百両余の借財をおうている。この中村は、昭島市域で最大の織屋に属する人である。そうであるからこそ先の書簡では、仕入れを円滑にするために、優先して返済すると記されていたのである。
このように「市方借財」は、もっとも緊要なものであるが、金額は相対的には低い。それに対し、都市商人への借財は巨額にのぼっている。地域的には、東京・大阪・京都(西京)・近江・尾張の五ヶ所である。いずれも代表的な都市商人の居住地である。これらの人々は、中野家に仕入金を送り、織物の買次を依頼した呉服商である。一軒ごとの借財も実に多額である。たとえば東京の田中次郎左衛門には、七五〇〇両、三ツ越に四五〇〇両という金額を借りている。
先に見た書簡の相手である大阪の稲西正兵衛には、六〇両二朱と一九七文を借りていた。ところが、稲西と一緒に記述されていた稲本は記述がない。この稲本のように「仕法会議出翰控」に残された書簡の宛先であり、あきらかに借財をしていると考えられる人物が、この帳面に記述されていないのである。これは、いまみている帳面が、借財の一部(もっとも主要なものであろうが)であることを推定させる。帳面の名前も「書抜帳」であった。とすれば、この期中野家は、より多額の借財をしていたということになる。
この借財のために、中野家は永々と貯わえた資産を明治七・八年に一挙に失なってしまうのである。たとえば、本石町二丁目にあった江戸店を、七〇〇円で森三左衛門に売却した。さらに、岡武兵衛・萩原勘兵衛・伊藤与兵衛の三人に、合計一一町五反余の土地を五六〇〇円で質入れした。また、中神村の本店とそれに付属する土蔵などを、一六〇〇円で島田弥左衛門に質入れしている。売却した江戸店はいうまでもなく、質入れした物件も、結局もどらなかったようである。