縞仲買活動の問題点

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中野家の経営が傾むくにいたる理由を、「不仕合引続キ」ということと、不良債権の増大という点からみてきた。それらが家の経営を傾むかせた要因の一つではあっても、決定的な理由にはなりえないだろう。倒産という非常事態に到る根本的要因は、中野家の経営の中核をしめていた縞仲買活動そのものにあるとみなければならない。では縞仲買活動の何が問題となるのであろうか。それを考えるには、少し時代をさかのぼり、天保期から考えてみる必要がある。
 天保後半期の経済変動は、八王子市場を中核とする製糸・織物業の構造を変質させた。先述したように中野家は、地主的・高利貸的性格を強めていったのだが、それより下層の富農達は、没落した貧農を賃引人・賃織人に組織することで乗りこえようとした。彼ら(問屋)は原料である繭や生糸を、複数の生産者に貸与し、できあがった製品をひきとるのである。この時生産者は、加工賃をうけとるである。このような形態を、問屋制家内工業とよんでいる。多くの場合、問屋は直接生産者に賃金を前貸しており、彼らを強く支配していた。
 このような問屋制的前貸支配にもとづく労働形態は、製糸業にもっとも展型的にあらわれている。『八王子市史』で分折されている多摩郡鑓水村の五郎吉はその代表的人物であった。織物は、製糸に比較して、問屋制的家内工業の未発達なことが指摘されているが、少しづつこの形態が生じてきた。『八王子市史』が分折している上恩方村の草木家は、その代表的事例であろう。じつは昭島市域にも、賃織を組織したと思われる人物がいる。それが大神村の中村嘉右衛門や伊右衛門である。
 先に糸を賃引させた経営の代表例として、鑓水村の五郎吉と名をあげたが、この五郎吉から二人は、それぞれ七貫一八〇文と一一貫一三一文の生糸を購入していた。この多量の糸を自家消費、すなわち家族が織物に織ったとは考えにくい。村内や周辺村の下層民に賃織させたと考えるべきであろう。少し後のことになるが、明治一〇年に嘉右衛門の孫中村半左衛門が「内国勧業博覧会」に博多帯地を出品している。この博多帯地の生産者は「清水きん」と銘記されていた。この「きん」は、中村家の賃織人であったと推定することが可能であろう。
 中村家や上恩方村の草木家などは、完成された織物を八王子市場に持ちこんでくる。あるいは、都市とりわけ江戸の小商人に直接販売したかもしれない。このような点から、彼らもまた在方縞買とよばれるが、その性格はまったく異なっていたといわねばならないだろう。
 このような商人の台頭は、中野家などの旧来の縞仲買を危機におとし入れる。なぜならば、第一に江戸への直接販売は、八王子市場の商品扱い量を相対的に低下させるからである。そして第二には、縞仲買が容易に織屋を従属させられなくなったことである。従来の織屋農民は、農間余業の域を越えず、経営規模も少さかった。それに対し、新たな仕入先となった彼らは、一定の資金の蓄積もあり、容易なことでは屈服しないのである。
 古い縞仲買達は、この新たに発生した経営を自己の経営下に従属させようとする。一方、問屋制家内工業主となった新しい縞買は、農村の織屋農民とともに、古い流通支配をのりこえようとする。ここに両者の対立が生じてくる。かって中野家などの古い在方縞買は、織屋農民とともに、宿方縞買の流通支配に挑戦したわけであるが、いまかっての同盟者と争いを展開せざるをえなかった。歴史の皮肉である。
 この対立は、市をめぐる騒擾となってあらわれた。先にみた天保年間の糊入織問題はその端初であったと考えることができる。また安政五(一八五八)年十二月に、上椚田村等一九ケ村の小前・村役人が、横山宿名主市郎右衛門や問屋太郎兵衛などの宿役人と縞仲買を訴えた事件はその例である。この訴えられた相手のなかに、中神村久次郎の名がみえる。
 訴えの理由は、(一)金銭相場を勝手に操作していること、(二)自分達の要求を通すために、縞市を休んで織屋を困らせている、という二点であった。このうち縞買たちが市を休む理由は次のとおりである。
  今般縞買人之内久次郎・勘兵衛・重兵衛外同渡世之もの共申合、既去月廿四日・廿八日・当四日三市とも休市いたし、前同様(安政三年十二月)縞数織溜売捌方強(しい)て無之村々難渋切迫いたし、一体縞買人共儀利欲之ため自儘ニ休市致、差縺(さしもつれ)を幸ひ直安ニ品物可買取巧ヲ以為混雑候(『八王子織物史』上巻五六二頁)
 縞仲買達は、市を休むことによって、織物を滞貨させ、安い値段で買いとろうとしたというのである『八王子織物史』は、この事件を評して「縞買の生産者農民に対する優越の姿を確認することが出来る」と述べている。たしかに金銭相場を勝手に操作するなど八王子市場における縞仲買は、まだ確固とした地位を持っていた。しかし、休市という非常手段をとらなければ安価な品物を手に入れられなかったことや、織屋農民が一九ヶ村も結集して、縞仲買の行為を追求するようになったことなどに、古い縞仲買の危機を考えるほうが妥当であると思われる。
 この織屋農民の結集の中心に、先にみた問屋制家内工業主となった農民がいたであろうと推測する。この両者の対立は、初期には旧来の縞仲買がその資金力にものをいわせて優勢であったであろう。だが、中野家のように、織物の流通のみに関与するものと、中村家のように織物の生産を押えたうえで流通に関与しているものとの差違は、少しづつあらわれてくるであろう。それが最も象徴的にあらわれたのが、維新直後である。いま問題としているように、中野家は倒産状況においこまれていったのに対し、中村家の経営は順調に発展していた。中村家は、織屋であるとともに、養蚕業にも手をそめ、品質改良に着手するなど、この後の昭島市域の養蚕・織物業を主導していくのである。そして、中野家の倒産時には、少ないながらも債権者の一人として名を連ねている。