開港の影響

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中村家や草木家などの新たな商人層が台頭したにせよ、まだ中野家の経営を決定的におびやかすまでには至らなかった。天保改革による風俗統制も、八王子織物が普及品をあつかっているだけに、破滅的影響となることはなかった。しかし、その後に来た開港は、八王子織物業、しいては中野家の経営に決定的とも思える影響を与えるのである。
 万延元(一八六〇)年一一月、八王子市場を中心として活動する縞仲買五〇人は、幕府に対し生糸貿易の中止を要求する歎願書を提出した。中野久次郎は、惣代四人のうちに名をつらねている。歎願書は、生糸交易の中止を要求する理由を次のように述べている。
  去未(安政六年)五月中横浜御開港已来最寄村々商人共諸色交易場売込、就中(なかんづく)生糸夥敷(おびただしく)売捌(さばき)、追々不底(ママ払カ)ニ相成、自然高価之相場ニ而、織元稼之もの共者、去年中より引続一同諸織物休機ニ罷在(まかりあり)、右ニ准し農間商人共迄も休業ニ陥り、何共歎ヶ敷(『八王子市史』下一〇六七~八頁)
 横浜交易の開始によって、もろもろの商品が新たに開けた広大な市場横浜へと流れていった。とくに生糸は、外国商人のもっとも希望する商品であったから、大量に横浜へ売られていった。いわゆる「絹の道」の形成である。前には八王子市へ生糸を売り出していた鑓水村の五郎吉は、開港以後一転して、市で生糸を購入し、横浜へ売り出している。この新たな流通経路の出現は、生糸値段を高騰させ、織物になる生糸量を減少させた。その結果次のような織物値段の状況が生まれたのである。
  (万延元年)出来秋より追々高値ニ相成、近年ニなき値段売捌候得共、糸高値ニ付織物多分織賃無御座候(『八王子市史』下一〇七一頁)
 すなわち、織物の値段は高いが、生糸値段の高騰によって吸いとられ、織賃さえでないというのである。だから多くの織屋農民は、「休機」すなわち織物生産を休止せざるを得ない状況においこまれたのである。織物量の減少は、当然のことながら縞仲買の経営を圧迫することとなるのである。
 この縞仲買の一般的困窮のなかで、一人中野家だけが安穏であるはずではない。むしろ逆に中野家は、もっともひどい打撃を受けたであろう。中村家のような経営は、生糸購入をあるていど失っても、村内・近村の農民を掌握していたから、養蚕・製糸の品質改良などの生産性向上をめざすことで立直れる可能性をのこしていた。織物についても、賃織人にしわよせをして経営を維持することができた。しかし中野家は、しわよせする賃職人などを支配していなかったから、経済変動をもろにうけなければならない立場にいたのである。
 中野家は、開港によって生じた新しい事態への対応にせまられた。現在のところ次の二点が確認される。第一の対応策は、生糸交易に参加することであった。現在中野家には、横浜交易に関する仕切書が数通残存している。それはすべて、横浜本町越州屋金右衛門から武州中相原村網野林蔵にあてたものである。そのうち一通は、八王子提糸一三〇斤余を洋銀六一〇七枚五分で林蔵が金右衛門に売り捌いた時のものであるが、この史料の端に「中野手引分」と銘記してある。このように、中野はその広い「顔」を利用して横浜商人と八王子生糸売込商との仲介をしていたようである。しかし、このような仲介では、大きな中野家の経営をささえることはできなかったであろう。そして、中野家は、この仲介以上に生糸商売に取り込むことはしなかったようである。
 第二の対応策は、都市商人への買次口銭を増額させる試みである。慶応元年七月、八王子縞仲買一八人の「御得意様」に対する増口銭要求の歎願書が出された。これに対し翌正月、江戸商人と思われる六人が納得しがたい旨の返答書を出している。この史料は、ともに中野家に残存しており、巻末に全文をのせたので参照されたい(史料編八七)。なお中野家は、縞仲買惣代となり手代を派遣し交渉させている。では、史料によって八王子仲買の言い分を見てみよう。
 都市の商人から依頼されて織物を仕入れる場合、昔から口銭(手数料)として、絹織一疋について銭四八文、木綿織一反について銭二四文が仲買の取分であった。これでは経営がなりたたないので、先年(年不詳)増口銭を願い出た結果、仕入金の一分(一%)と決められた。これは、現在のように織物値段が高値の場合にはふさわしい方法であり、追々仲買の取分の増加するはずであった。ところがあまりにも値段が上昇したため、買入れをへらす商人がふえてきたし、諸物価の高騰により、諸雑費もかさみ経営は好転しない。そこで口銭を増額してもらおうと数年前から考えていたのだが、幕府もこの異常な物価上昇をみかねて物価引下げの手段をとることを期得して、要求をさしひかえてきた。ところが一向にこのような「沙汰」が行なわれる気配がない。このままでは経営がなりたたないので、口銭を増額し、仕入金の二分(二%)としてほしい。このような内容であった。
 たしかに縞仲買の経営は困難におちいっていたのであるが、増口銭の要求はあまりにも大義名分がなさすぎた。都市の商人に、「諸色ニ順シ貴地品も未聞之高価ニ相成居候得者、不申共口銭増方ニ相成居候哉ニ奉存候ニ付、歩増調談相成兼候」と反対され、実現されなかったのである。
 このように中野家は、多くの縞仲買と同様に、開港後の経済変動に対して有効な手段をとりえず経営を後退させていった。しかも、先述したように地主経営もうまくいかず、旗本等への貸金がコゲつき、身内の不幸・打こわしの被害などが、衰退した中野家におそいかかったのである。その結果、さしもの中野家も、ついに倒産という非常事態においこまれざるを得なかったのであった。
  註補
  本項は、『八王子市史』下巻と『八王子織物史』上巻に依拠してまとめたものである。とくに、中野、中村両家以外の経営については、すべて両書によっていることを明らかにしておきたい。