いままでみてきた中野家の経営を簡単にまとめておこう。ただ、今後中野家から新たに史料が発見される可能性も残っており、八王子市場の他の経営から中野家の活動を示す史料もみい出しうるであろうから、ここでおこなうまとめは、あくまでも中間的なものであることをことわっておかねばならない。
中野家の歴史は、つぎの五つに区分されるであろう。
(一) 前史(明和以前)村の有力農民であった中野家が、縞仲買経営に従事するまでの時期
(二) 成長期(明和~文化期)明和以前のある段階から縞仲買を開始した中野家が、八王子織物業の興隆にのって、基盤を確立している時期、その末年は、在方縞仲買の中で確たる地位を占めた文化期におかれる。
(三) 発展期(文政~天保初)在方縞仲買の頂点に位置した中野家は、文政期の地廻り経済圏の成長の時流にのり、「中久大尽」というにふさわしい資産を確立し、江戸問屋商人や江州商人などと積極的な営業を展開した時期、その終わりは、天保飢饉による経済変動にもとめられる。
(四) 変質期(天保後半~開港)天保飢饉により没落した農民の土地を集積し、地主経営を本格的に展開した時期。同時に、旗本の「勝手賄」を行ない、急速に領主勢力とゆ着をはじめたのも特徴的である。だが、中野家の背後で、直接生産者を問屋制的に支配した新たな豪農達が台頭し、中野家の経営をおびやかしつつあったことも忘れてはならない。
(五) 衰退期(開港~明治初)大きな経営に発展した中野家も、開港にともなう経済変動に対応しきれず衰退し、ついに明治七年倒産状況においこまれた迄の期間。その要因は、開港が生糸商いを活発にし、織物生産を衰退させたことに求めねばならない。しかしその他に、地主経営のいきづまり、旗本賄金などの貸付金のコゲつき、打こわし、そして肉親のあいつぐ死亡という個人的不幸の連続などにも起因していたのである。
ところで中野家は、近世期を通じて、(一)在方縞仲買、(二)地主、(三)質屋・高利貸、(四)米穀・雑貨商という四つの面で経営を展開していた。このうち、一時的に地主・高利貸経営が急成長をとげた時期もあったが、経営の中心はあくまでも在方縞仲買にあった。この場合、在方縞仲買とは、八王子宿の住民ではなく、周辺村落に本拠地をおいた織物の買次問屋をさしている。代表的な織物が縞織であるので、縞仲買と称している。彼らは「仲間」を作り、その中で中野家はたびたび惣代として重要な働きをなした。『八王子織物史』上巻は、在方縞仲買を次のような存在としてみている。
都市(主として江戸)への仲買を業務とするが、(1)(町方縞買)に比べてその活動は自主的であり、市中の中小呉服屋を主たる販売先とするところの商人。彼等は、時には、直接消費者(素人)をも相手とすることがあった。彼等の場合、集荷ルートは市であった。(同書五六八頁)
さらに階層的には非村役人・中堅層であり、流動性・断絶性を特徴とするというのである。
在方縞仲買の一般像をこのように規定するとすれば、あきらかに中野家はあてはまらない。少なくとも天保期以降は、三井をはじめとして、江戸・大阪・近江等の大呉服商(例えば江戸十組問屋に属する)を顧客としていた。さらに村内有数の地主であり、また長期間継続して縞仲買活動を展開していた。資産の面からも、八王子町方縞仲買に伍して活動するだけのものをもっていた。このように、町方縞仲買と階層的には類似する立場に中野家はいたのである。
これは、まだ八王子市が発展途上にある明和以前から、すでに縞仲買活動をはじめたという先駆性によるのであろう。長期に縞仲買を継続した結果、町方縞仲買と並びうる資産と信用をかちとったのであろう。
だがしかし、このことは開港期以降の中野家には、負の作用をもたらしたのではなかったか。縞仲買としての信用と名声を得れば得るほど、状況の進展にあわせて経営を変化させることができなくなったと思われる。すなわち、生糸値の上昇を横目にみながらも、生糸商いに積極的になれず、ついに倒産の悲劇へおいこまれていったのである。