上川原村の戸数は、近世を通じてほぼ二〇数戸~三〇戸のあいだを前後していた。この変遷は、それぞれの時期におけるこの村をとりまく、さまざまな条件に規定されたものであった。たとえば、享保期の新田開発による戸数増加(第二章第一節)、天保飢饉時における減少(本章第二節)、幕末の養蚕盛行期における増加傾向などである。
上川原村の戸数増減は、右に概観したとおりであったが、この村の人々はつぎのような五つの氏族にわけられるという。すなわち、大貫氏・木野氏・大野氏・石川氏・指田氏である(註一)。いいかえれば、この五つの血縁集団により、上川原村は構成されていたのであった。それぞれの血縁集団は「組」とよばれる組織(五人組とは異質である)をつくり、組の筆頭者である組頭(村役人としての組頭とは異なる)のもとに協力関係をつくりあげていた。
この村の名主役は、原則的には年番制であり、組頭のうちから交代で勤めるものであった。たとえば、享保期新田開発は指田(さしだ)一族の七郎右衛門の主導下で展開され、七郎右衛門はその功績により定名主役に推挙された。この背景には他の組々の七郎右衛門支持があったのである。ところが開発が予期した成果を容易にあげえないことが明らかになると、他組の七郎右衛門支持は動揺をきたし、年番名主制が復活したのである。このように、上川原村の村政は各組の相互規定性のうえに展開されていったのである。
さて、指田一族のことにうつろう。指田一族は上川原村の草創百姓の一つとして、この村では由緒ある一族であった。その組頭が七郎右衛門、現在の指田十次家である。七郎右衛門家は、すでに享保期には村内最高の所持高をもつとともに、近隣の村々にも田畑を所持していた。幕府の武蔵野新田開発計画に対して、七郎右衛門は在地農民の立場から積極的な行動を示して、上川原村持添新田開発を推進した。この持添新田開発は、必ずしも順調ではなかったが、七郎右衛門は組内のみならず、村内高持百姓筆頭としての経済的基盤を確固としたものにしていった。こののち、七郎右衛門家は村政上の主導権を放棄せざるをえないこともあったが、経済的には近代にいたるまで上川原村の首位を保ち続けた。
近世後半に入ると、この地域の村々では婦女子の農間稼として、養蚕・織物生産が盛んになってきたことを背景に、七郎右衛門家ではいつの頃からか、繭・生糸の仲買商を営むようになった。その取引範囲は天保期には多摩地方の村々であったが、幕末の開港期以降には横浜商人との関連のもとで、甲州方面に及んでいた。明治期に入ると当主指田忠左衛門のもとで、生糸関係のみならず製茶・養豚・肥料取引などを営んだ。これと併行して金融関係にも手を広げ、活動範囲は昭島市域の村々のみならず、現立川市域・福生市域の村々にまで及び、あわせて地主経営も営んだ。指田忠左衛門は明治一二(一八七九)年二月の第一回神奈川県会議員選挙に当選し、以後政治の分野でも大いに活躍した。世人は彼を多摩三傑の一人に数えたという。