第1表は、寛政七(一七九五)年における各農民の年貢収納状況・所持高を示したものである。まず第一に気づくことは、入作農民の増加である。上川原村ではすでに中期には、大神村の二人の農民が本田を所持していたが、それに加えてこの寛政七年には、宮沢・殿ヶ谷両新田の一四人が新田の過半を所持していた。これを年貢納入額でみると、上川原村新田の土地を所持していた者の総数二九人、うち村民は一五人で永一貫九文一歩、入作農民は一四人で永二貫七九八文三歩となっている。つまり、村としての享保期新田開発の成果は、この一八世紀末までの約半世紀のあいだに、七割以上喪失してしまったのであった。したがって、この村で新田を所持していた者は約半数にすぎなくなっていた。おそらく、一八世紀後半における、ことに明和末年~天明年間(一七七〇年代~八〇年代)のあいだに、多くの農民たちは経営が困窮化して、まず新田を手放していったのであろう。
第1表 寛政7年上川原村年貢収納額所持高一覧
第二に気づくことは、農民の所持高の変化である。第2表は、享保期新田開発直前(享保四年)、同じく直後(延享三年)、寛政七年の所持高による階層構成をしめしたものである。この表を一見して明らかなように、かつては村内で上層であった農民の所持高減少が著しい。寛政七年における所持高最高は宇助であるが、それもわずか四石八斗余にすぎない。これに対して、二石未満層の人数は変化を認められない。寛政七年段階で、村内農民の所持高総計は五三石五斗五升八合であり、村高八八石三斗六升二合のうちで六一%弱にすぎない。農民の所持高は出作分を含めて考えなければならないが、村内の事情に限ってみれば、かつて四石以上所持した層の経営縮少が本田・新田ともに顕著である。
第2表 上川原村階層構成の変遷
ここで戸数・人口をみておきたい。寛政七年は、延享三(一七四六)年と比べて、戸数は同じであるが、人口は一五七人→一一六人と大きく減少している。このことは、一戸あたりの家族数が減少したことであり、経営困難な状況のもとで、子女の多くが奉公人などになって離村していった結果であるといえよう。
以上のことより、上川原村における一八世紀後半の概況は、村ぐるみの貧窮化の過程であったと推定できる。この時期の村明細帳には一貫して、「此村武蔵野附ニ而賑ひ無二御座一候、困窮之村ニ而御座候」(明和五年「村鑑帳」ほか)と記されているが、あながち修辞のみとはいえないであろう。
つぎに、一九世紀初頭の様相をみていこう。第3表は、文政一三年=天保元(一八三〇)年の年貢納入状況をあらわしたものである。第1表と比較検討することにより、この時期の変化をさぐっていきたい。両年のあいだで年貢納入総額の差異はわずか永一一文九歩しか認められず、したがって各農民の納入額の差異は所持地の売買譲渡の結果であるとみられる。第4表は、両年の年貢納入額を基準とした階層構成の変化を表にしたものである。この表によると、永五〇〇文~七〇〇文の階層の減少が著しい。この階層は所持高でみると二~三石層に相当するもので、上川原村では中層に位置していた農民たちであった。つまり、一九世紀初頭の約三〇年間は、かつて上川原村で中層を維持していた農民にとって、経営維持が困難になった時期といえよう。
第3表 文政13年上川原村年貢収納額一覧
第4表 寛政7→文政13年における上川原村年貢収納額による階層構成の変化
この上川原村中層農民の没落は、本田においては七郎右衛門の飛躍的な所持高増加、新田においては入作農民の所持高増加となってあらわれた。まず新田からみていこう。宮沢・殿ケ谷両新田からの入作農民は一人増えて一五人となり、その年貢納入額は永二貫九四六文三歩へと増加した。増加した永一四八文分に相当する分だけ、上川原村農民の所持地が減少したのである。
本田においては、七郎右衛門は他の農民が手放した畑地を買い集めた。その結果七郎右衛門の年貢納入額は永二貫一〇七文二歩へと二倍強になった。七郎右衛門の土地集積は、上川原村に限ってみれば本田部分に限定され、新田部分にはまったく及んでいない。この時期における七郎右衛門家の経営は、かつて先祖が率先辛苦して開墾した新田を放棄しており、本田の取得に専念している。この意図は不明であるが、この傾向はすでに寛政期には明らかであり、注目すべきことがらである。七郎右衛門家の経営方針が本田取得に限られ、新田に目が向けられなかったことにより、新田の大部分は他村農民に買い取られていったのである。
この一九世紀初頭の約三〇年間に、上川原村では七郎右衛門のみが飛躍的な経営拡大をなしえた具体的な理由は不明である。けれども七郎右衛門家にとってこの期間における経営拡大が、やがて天保期以降に繭・生糸の仲買商として、手広く商売を営む基盤をつくりあげていったと考えられるのである。