C 天保期の上川原村

1009 ~ 1012 / 1551ページ
 天保年間(一八三〇~四三)の前半は、前節第四項で述べてあるように、連年にわたって全国的な規模の大飢饉にみまわれた時期であった。ここでは、この天保期における上川原村農民の経営動向をみていきたい。
 天保期の上川原村は、まず戸数・人口をみると、戸数二四~六戸、人口一二〇人前後で、戸数・人口ともに近世後半における最低数値を示している。大飢饉の影響による疲弊状況をうかがうことができよう。
 第5表は、天保四(一八三三)年から天保一四年までの上川原村農民の所持高変遷を、宗門人別改帳の石高記載により作成したものである。この表を一覧すれば、上川原村では天保七~八年と同一二~一三年の両年に、農民間の土地譲渡が比較的頻繁におこなわれたことがわかる。そこで天保八年を画期として、天保期を前後にわけて、それぞれの時期における傾向をみていくことにしよう。

第5表 天保期上川原村所持高変遷

 第6表は、天保八年を画期として各農民の所持高増減傾向をまとめたものである。所持高を倍増もしくは半減させた者を規準に、「大きく増加(減少)」・「わずかに増加(減少)」と区別してある。七郎右衛門は天保期後半に分家を創出し、そののち本・分家をあわせて所持高を激減させているが、第6表では一人として数えた。また甚右衛門もやはり分家を創出した結果として所持高を激減させたが、第6表では本・分家あわせて「わずかに減少」として、これも一人に数えた。

第6表 天保期上川原村農民別所持地増減傾向

 この第6表をみると、天保四~八年の期間には、天保大飢饉の影響をつよくうけて、六人の経営が潰滅的な打撃を蒙ったことが明らかになる。個々にみれば、安兵衛後家・伝右衛門・氏名不詳一人の計三人が潰百姓となり、勘右衛門・太左衛門の二人が屋敷地を残してあとの畑地はすべて放出、喜兵衛は屋敷地とわずかな畑地のみと、それぞれに大きな打撃をうけている。「わずかに減少」した八人を加えて、全農民二七人中一四人が所持地を手放していったのである。これに対して、新たに経営を拡大させたのは、七郎右衛門・源左衛門・権右衛門の三人のみで、この三人はいずれも村内では上・中層に位付けされた農民であった。ことに七郎右衛門は天保四年段階で、村内ではとび抜けた大きさの所持地を保有しており、この年以降天保七~一〇年までのあいだに、着実に土地を集積していった。
 つぎに、天保八~一四年の期間をみていこう。全般的には飢饉による窮乏状況を脱して、やや立直りの傾向を示している。またこの時期に、七郎右衛門・甚右衛門は分家を創出している。所持高を「大きく減少」させたのは、七郎右衛門・富右衛門・太郎兵衛・市蔵・八右衛門の五人であった。このうち七郎右衛門(利八)の場合は、後述するように農業経営の行き詰りによる所持地放出ではなかった。残りの四人は農業経営の行き詰りによる所持地譲渡と推定されるが、いずれも天保一四年段階ではその所持高から推定して、屋敷地のほかに若干の畑地を所持しており、経営の潰滅状態までには至らなかったと思われる。
 ここで、上川原村における天保期をまとめてみると、
 (一) 天保八年以前のいわゆる飢饉状況のもとでは、多くの農民は多かれ少なかれ経営に打撃を蒙った。
 (二) (一)の状況のもとで、経営の比較的安定していたと思われる若干の農民は、中下層農民の放出した土地を集積して所持高を大きくした。ことに七郎右衛門は所持高を確実に増加させて、村内筆頭の地位をさらに強固なものにした。
 (三) 天保年間の後半には、農民の経営は飢饉状況を脱してやや回復の徴候をみせてきた。けれども引き続き没落していった農民も決して少なくはなかった。
ことが明らかになる。