D 天保期の七郎右衛門家

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 ここで、天保期後半における七郎右衛門家の所持高喪失状況をみておきたい。七郎右衛門の村内所持高は天保一〇年三月段階で、九石五斗三升になっていた。翌一一年一二月に、七郎右衛門は家督を忰利八に譲って、所持高のうち七石三升分を相続させた。七郎右衛門は指田一族で寛政年中に潰百姓となった林右衛門の跡式を相続し、所持高二石五斗分をもって分家になった。けれども名主役は、以前同様に甚右衛門とともに年番で勤めていた(指田十次家文書)。
 すでに述べたように、七郎右衛門家はいつの頃からか、農業経営のかたわらに、繭・生糸の仲買いを営んでいた。『大和町史』によれば、天保一〇(一八三九)年五月九~二九日にかけて、武蔵野地方の一一ケ村のべ六九家の農家をまわり、総計四五二枚分の繭を買い集めたという。このとき七郎右衛門が廻った村々は、上川原村村内・拝島・郷地・福島の各村、および立川・砂川・中藤・三ツ木・芋久保・蔵敷・奈良橋の村々であった。一軒平均で約四枚分の繭を買い入れたという。この繭・生糸仲買には、七郎右衛門の嫡子利八も積極的にかかわっていたと思われる。
 この利八は家督相続をした翌年の天保一二年に、所持田畑のすべてを質入もしくは売却して、自らは欠落してしまった。そこで利八は「弥不埓相増」という理由で、宗門人別改帳を除かれて、以後行方不明ということになった(第5表には記載しなかったが、天保一三年三月の宗門人列改帳には利八の名前はみえず、家督は利八後家の相続とされている)。ここで第5表の天保一三年三月の部分をみていただきたい。七郎右衛門所持高五斗一升三合、利八後家所持高四斗二升となっている。この両人の所持高は翌天保一四年三月も同一である。そこで、天保一四年一一月の「御年貢勘定帳」(指田十次家文書)をみると、七郎右衛門家関係分は、第7表のように記されている。七郎右衛門・利八後家の喪失した畑地を豊田村平太夫が所持しているのである。利八はその所持地をこの平太夫に譲渡したのであり、さらに利八の借金は同人分だけでは返済できず、七郎右衛門分にまで及んだのである。

第7表 天保14年七郎右衛門家年貢納入の状況

 ここで注目できることは、この年以降における年貢勘定帳の「平太夫」分の記載個所である。年貢勘定帳は、その村に田畑を所持する全農民について、その年に納入すべき年貢負担額を記した帳簿である。上川原村のそれは一貫して、まず上川原村農民分が記載されてあり、そのあとに入作農民分が続いている。この記載順序の一例をあげれば、第1表で示したような序列である。ところが、天保一四年の「御年貢勘定帳」をみると、まず「七郎右衛門」分→「利八後家」分→「豊田村平太夫」分→「金右衛門」分となっている。このあとには上川原農民分が続き、さらに大神村からの入作農民分→宮沢・殿ヶ谷両新田からの入作農民分と順番に記載されている。つまり全体としては、記載順序において先例と異なる点は認められない。平太夫のみが例外なのである。この時期以降の上川原村年貢関係諸帳簿には、平太夫の名前は「豊田村」という居村肩書をはずして、あたかも上川原村農民の一員であるかのように、上川原村農民分の記載個所に並んでいる。けれども平太夫は宗門人別改帳には一度も記載されておらず、あきらかに入作農民である。つまり平太夫は入作農民としては特別な存在で、年貢納入に関してのみ上川原村居住農民の扱いをうけていたと考えなければならない。平太夫が何故特別な存在であったのかという理由は、今後究明されなければならない課題として残されている。
 さて、七郎右衛門家の経営に戻ろう。天保一三年一一月、つまり利八が欠落帳外れになった翌年に、三ッ木村の藤吉より七郎右衛門のもとへ、元利あわせて一〇〇両の借金返済要求がきた。これは、利八が藤吉から天保一一年に「生糸商ひ向仕合いたし買掛借金」をしたものであった。七郎右衛門の関知しない借金であった。ときに、七郎右衛門・利八後家は所持地の大部分を喪失しており、利八の残された妻や幼子は日々の生活にも差し支えるほどに困窮していた。利八の借金を一度に返済することは、七郎右衛門家にとって不可能であった。ところが、利八の借金はこれだけではなかった。天保六年から一一年にかけて合わせて四件、中藤・三ツ木両村の八人から合計一七〇両を借りていたことが判明した。債権者側は三ツ木村の藤吉を代表として、天保一三年一二月に江川太郎左衛門代官所へ返済方を訴え出た。訴えられた七郎右衛門側は、翌天保一四年二月に代官所へ返答書を提出した。それによると、窮状を哀願して、「(借用)金追々請取呉候様」に藤吉方へ仰せつけてほしいと願い出ている。つまり長期返済の願いであった。双方の交渉は借金返済方法をめぐっておこなわれ、同年八月にようやく妥結をみた(史料編八〇・八一)。
 この利八借金返済一件の訴訟方は、天保一〇年に七郎右衛門が繭の買い集めに廻った地域内の村々であった(『大和町史』)。訴訟文書の内容、具体的には利八の借金の仕方から推定して、右の地域は天保期に七郎右衛門家が連年繭の買い集めに廻っていたところであった。おそらく、七郎右衛門家の天保期段階における在方繭・生糸仲買としての買い集め地域は、現在の昭島・立川・武蔵村山・東大和市域に限定されていたのであろう。それは多摩川以北・多摩湖以南の地域にすぎないが、その取り扱い規模は決して小さいものではなかったと思われる。
 七郎右衛門家は、これまでにみてきたように、天保末年における利八の仲買商経営の失敗により、所持地を激減させている。けれども、やがて在方生糸仲買の経営規模を拡大させ、所持地を回復していくのである。この間に七郎右衛門は分家をたたんで本家に戻った。また弘化三(一八四六)年四月には、七郎右衛門は六八歳になっており、老齢を理由に名主役退役を願い出ている(指田十次家文書)。上川原村の新しい名主は、指田一族の金右衛門・源左衛門の両人によって年番で勤められることになった。