第8表は、幕末から維新期における上川原村農民の土地保有状況を示したものである。さらに各農民の所持高に基づく階層構成を、天保期と比較したものが第9表である。全般的な傾向として、一石未満層と二~三石層が増加している。また七郎右衛門は天保期に喪失した所持地の約三分の二を回復して、所持高において村内最高の地位を取り戻している。
第8表 幕末維新期上川原村農民の所持高一覧
第9表 天保-幕末期における上川原村農民所持高による階層構成の変化
慶応年間(一八六五~六七)には、人口が一五〇人代に増加しており、所持高においても二~四石層という村内では中層の経営が、天保期よりもわずかではあるが増加している。その反面で、一石未満層がさらに増加して、全農民戸数の約五割を占めるにいたっている。
ついで、第10表により、明治四(一八七一)年三月段階における、上川原村農民の村内所持地・出作分所持地とをあわせた所持高による、階層構成をみておきたい。すでに第8表に示されているように、明治四年段階で出作地を所持していた農民は一二人であった。最高は政吉四石二斗余であり、以下甚右衛門二石二斗余、宇右衛門一石一斗余とつづき、残りの九人はいずれも一石未満である。一二人の出作高合計は一一石二斗六升二勺にすぎず、これは入作分の約三割であった。さらに当然のことながら、出作地を所持した農民は村内所持高でも中層以上の者が多かった。
第10表 明治4年上川原村農民の総所持高
第10表から明らかなように、明治初年には全農民経営の六割弱が一石未満層となっている。けれどもこの時期に村の人口は一六〇人前後と、近世以降では最高になっている。このことから、幕末維新期には農業以外における経営維持の手段が、上川原村農民に一般的に展開していたことが推測できるのである。それは、開港以降に急速に需要を増大させた養蚕であった。
養蚕・織物生産は、第二章第三節第二項で示しておいたように、村明細帳の記載によれば一八世紀末以降、農間稼として活発におこなわれるようになった。その時期以降、昭島市域の村々は八王子市場をとりまく織物生産地帯として特質づけられ、その過程で養蚕も盛んにおこなわれるようになっていた。
開港以降、横浜を中心として対外貿易が活発に展開されるようになると、幕末期における輸出総額の約三分の二が生糸で占められていった。この新しい対外需要のもとで、国内の副業的な手仕事による生産は追いつかず、生糸価格は急騰していった。上川原村では、安政五(一八五八)年に生糸生産量は二五貫三七五匁にのぼっていた。
この生糸とともに、輸出総額の約一割を占めていた製茶も、この時期以降活発におこなわれるようになった。これらの商品は在方仲買商人によって買い集められ、横浜へ送られていくのである。このような新しい経済変動のもとで、上川原村は近代に入っていくのであった。