F 幕末期七郎右衛門家の生糸仲買

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 開港は、生糸関係の生産者・商人に殊のほか大きな影響を与えた。それは、これまで国内需要のみに頼っていた生糸が、幕末期輸出品の三分の二を占めるにいたったからである。生糸仲買商は開国によって巨額の利潤をあげ、開港当初には買値の二~三倍の価格で売却した者もあったという。さらに輸出生糸の激増は、養蚕生産を剌激した。元治元(一八六四)年の江戸の糸問屋の上書によれば、諸国生糸の平年産出高およそ二万個(一個九貫匁)、開港後およそ四万個と記している(註二)。
 この生糸をめぐる新しい状況のもとで、従来から繭・生糸の在方仲買を営んでいた。七郎右衛門家の行動範囲の変化を簡単にみていくことにしよう。
 七郎右衛門家の繭・生糸仲買は、天保年間には武蔵野地域の一部分に限定されたものにすぎなかったが、おそくとも文久元(一八六一)年までには甲州の東郡(ひがしごうり)地域(甲府盆地東半分)にまで及んでいた。この幕末期における七郎右衛門家の生糸仲買の方法は、甲州の場合をみると、在方の生糸商いの集荷した生糸を現地で購入し、それを横浜へ運搬して、横浜の売込み商へ売却するというものであった。開港期における横浜の生糸需要はぼう大な量にのぼっており、したがってその傘下の在方仲買いの取扱い量も、開港以前とは比較にならないほどの増加を示していたと思われる。七郎右衛門もまた、自己資金のみならず「金主」よりの資金融資をうけて、活発な仲買い活動に従事していた。
 文久元年当時、七郎右衛門は八王子寺町の地借であった和蔵と組んで、甲州東郡地域での仲買い活動をおこなっていた。この年の一一月、至急に生糸を横浜へ搬入しなければならないことがあった。そこで七郎右衛門は甲州へ赴いて生糸を買い集め、梱包して横浜へ発送する手筈を整え、輸送は甲州の生糸買集め人に依頼して帰った。ところが、荷物は横浜へ届かなかった。甲州の買集め人が生糸を横領してしまったのであった。そこで翌文久二年三月、和蔵と七郎右衛門は甲州の買集め人を相手取り、損害賠償の訴訟をおこした。この訴訟には和蔵が主としてあたったため、訴訟は和蔵の居所名をとって「寺町一件」と呼ばれている。この訴訟をとおして、七郎右衛門の生糸仲買いのあり方をみていくことにしよう。
 この寺町一件の訴訟方は、和蔵・七郎右衛門の両人であり、相手方は甲州の買集め商人山梨郡落合村長(おさ)百姓八郎兵衛父伝兵衛・八代郡地蔵堂村武兵衛・同郡千米寺村百姓友右衛門の三人であった。このうち伝兵衛と武兵衛とは舅(しゅうと)・聟(むこ)の関係にあった。事件の経過は以下のとおりである。
 文久元年一一月、和蔵・七郎右衛門は至急の生糸需要を調達するため、かねてからの知り合いであった落合村伝兵衛のところへ行って買い付けを依頼した。伝兵衛は、自分の聟である地蔵堂村武兵衛が手広く生糸商いをやっているので、買い付けを交渉してみることにしよう、ついては買入手付金として一〇〇両を渡してほしいと述べた。そこで同月二〇日に、和蔵・七郎右衛門より伝兵衛・武兵衛に一〇〇両を渡した。ほどなく買付けができたという知らせが入り、千米寺村友右衛門方へ売主が集ったので金子を持って来訪するようにといってきた。このおりの買付け状況を示したのが第11表である。

第11表 甲州糸買入覚帳

 第11表の武兵衛仕入分をみていただきたい。一一月二五日、和蔵・七郎右衛門は、伝兵衛・武兵衛を同道して友右衛門方へ赴き、そこで当地の生糸買集め人と取引をした。そのおり、友右衛門へ金一五〇両、武兵衛へ金一七両三分、中尾村治左衛門へ金一一五両、地蔵堂村作兵衛・清助へ金二一七両一分、都合金五〇〇両を支払っている。このとき集められた生糸の総量は正味七三貫三三四匁で、その代金は金七二九両三朱と取極められた。このときまでに渡した代金は内金一〇〇両を加えて計六〇〇両であり、残金の一二九両三朱は生糸が横浜へ到着したのと引替に支払われることになった。集められた糸はその場で一箇九貫目の梱包に荷造りされ、和蔵・七郎右衛門の手で封印がなされて、六箇は友右衛門方へ、二箇は武兵衛方へ預けられた。そしてすぐさま甲州道中の栗原宿まで積み出してもらう手筈をととのえた。
 この八箇の生糸梱包は一向に送られてこなかった。和蔵・七郎右衛門は驚いて伝兵衛方に催促した。伝兵衛からも武兵衛・友右衛門へ照会がなされたが、この三人の説明はとりとめなく要領をえなかった。そこで訴訟を考えていたところ、伝兵衛は、和蔵・七郎右衛門とは従来からの知り合いでもあり、今後の取引きのこともあるので、自分の方の御陣屋へ出訴して解決するから暫く待ってほしいと頼んできた。ところが一向に埓があかなかった。そこで和蔵・七郎右衛門方は、翌文久二年三月に幕府勘定奉行所へ訴訟をおこした。和蔵側の言い分は、甲州の買集め商人が自分たちを「見離候商人愚昧之者与見掠」て、詐欺行為をはたらいたというものであった。双方の主張は対立し、なかなか決着をみなかったが、慶応元(一八六五)年一一月にいたり、ようやく和解が成立した。
 和解の内容はつぎのようなものであった。
 (一) まず、双方のあいだで生糸取引きがおこなわれ、和蔵・七郎右衛門は伝兵衛・武兵衛・友右衛門に代金のうち六〇〇両を支払ったという、商取引の事実が認定された。
 (二) 甲州買集め商人は、その傘下の「引合之者」と共謀して、和蔵らの荷物を横取りしたのではなく、買集め人と引合人との取引きに混乱が生じて、その禍中で和蔵らの荷物が行方不明になったこと。
 (三) 甲州側は、和蔵らへの損害を買集め人・引合人であわせて三四〇両弁償すること。残金の二四〇両は和蔵側の「勘弁」とすること。
 このようにして、寺町一件は決着をみた(史料編八八)。
 この一件により、幕末における七郎右衛門の生糸仲買いの様相を部分的にではあるが、垣間見ることができる。まず第11表から明らかなように、七郎右衛門の在方生糸仲買は甲州の東郡地域におよび、相当規模の取引をおこなっていることである。文久元年段階では、山梨郡落合村の伝兵衛と恒常的な取引関係が成立していたのであった。ついで、生糸の横浜集荷体制のなかでは、生産地と横浜とを結ぶ在方仲買として位置づけられる。ことに、甲州の東郡地域で生産された生糸は次のような経路で、横浜に集荷されたといえよう。
  生産者農民→引合の者→買集め人→在方仲買→横浜売込商
 この幕末期における七郎右衛門家の生糸商いは、右に述べたいわゆる「浜出し」生糸のみではなかった。国内市場向けの生糸商いをもあわせて営んでいた。この様相を簡単にみておきたい。生糸は数本が撚(よ)りあわされて撚糸に仕立られ、染色されて絹織物に織られた。七郎右衛門家では生糸を集荷すると、いわゆる「浜出し」は生糸のままで出荷し、国内需要向けは糸撚屋に廻して撚糸として売却していた。慶応元(一八六五)年の「糸撚屋出帳」(指田十次家文書)によりこの様相をみておこう。
 「糸撚屋出帳」によると、この年八王子二軒・拝島七軒の撚屋に、生糸を撚らせて工賃を支払っている。一例をあげると、拝島村の撚屋利喜蔵に依頼した分は、第12表に示すとおりであった。利喜蔵には生糸八貫余が撚りにだされており、その工賃は生糸一貫目につき六本緒で銀三五匁・玉四本緒で銀五〇匁の割であった。七郎右衛門家ではこの慶応元年に、総計で四二貫七〇五匁の生糸を撚屋に撚らせていた。

第12表 糸撚の一例

 七郎右衛門家では、右に述べてきたような、横浜向け生糸および国内需要向け生糸(撚糸)を取り扱う在方仲買を活発に営んでいた。このほか本項の冒頭で記したように、地主経営・金融業をもあわせて展開していたが、幕末期における在方生糸仲買としての活動が資本を蓄積する主要な分野であったと思われる。ここに、本節第一項で述べた中神村中野家とは異質の豪農経営のあり方をみることができる。そして七郎右衛門家の経営は、明治年間に入ると、すでにあるものに加えて、製茶・養豚・肥料商いなどをも営み、大きく発展していくのであった。
  註補
 一 昭島市郷土研究会『上川原部落の研究』
 二 山川出版社「体系日本史叢書・産業史Ⅱ」