A 旗本の財政難

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 上川原の指田万吉家には、文久三(一八六三)年の「私領渡差障有無書上帳」が二種類現存している(史料編二九)。文久三年のそれは、江川代官の支配する領域に数多く残されており、幕末の対外的危機の中で、海防策の一環としてこのような調査がなされたのであろう。
 このような書上げは、代官所から示された雛形にもとづいて作成されることが多かった。上川原の書上げも、他村のものと表現が類似しており、雛形にもとづいて作成されたと思われる。そこでは私領渡について、「当村知行渡り并分郷に相成候義、私領ニ相成、御料之節与替候(而欠カ)地頭勝手ニ相成申間敷と奉存候」と書いてある。すなわち、上川原村が私領(大名領地か旗本知行地)になるか、その一部が私領になっても、幕府領の場合と大差ないであろうというのである。
 しかし、一種は、全く異質な表現をしている。
  近来者年々村方ニおゐて、浚方等仕、夏田農繁之時節多分之人足相掛、難渋仕候義ニ而、御私領渡り相成候而者、猶更諸用も相増可申哉、依而者一村相続ニも拘り候義ニ御座候
 上川原村は用水等の諸入用がかさみ難渋している村である。その上に私領になったら一層諸入用がかさみ、村が成り立たなくなる危険性さえあるというのである。あきらかに、この文書において彼らは私領渡しを拒否したといいうる。この私領渡しを拒否した文言にこそ、上川原村の人々の真の意志が示されていると見なければならない(註一)。
 ではなにゆえに、上川原の人々は私領渡しを拒否したのであろうか。それは全村幕領である上川原と比べ、私領の人々がより苦難の生活をしいられていることを見聞していたからである。上川原村の周辺には、大名の領地はない。だから、彼らにとっての私領とは旗本知行地をさしていた。本節では、上川原村の人々が拒否した旗本の知行地支配と、そのもとで人々がどのような生活を送らざるを得なかったかを見ていきたいと思う。
 周知のように、幕藩制社会において旗本達は、「天下の直参」とよばれ、高い身分と格式を与えられていた。しかし、格式の高さに比して、生活は楽ではなかったといわれる。それは、幕藩制社会の成立直後から見られたことであるが、時代が降るにしたがって、一層激しくなっていた。文化年間(一八〇四~一八一七)にあらわされた『世事見聞録』という書物には、困窮する旗本の生活が次のように描かれている。少し長いが引用してみよう。
  なべて武家は大家も小家も困窮し、別けて小祿なるは身体甚だ見苦しく、或は父祖より持ち伝へたる武具、及び先祖の懸命の地に入りし時の武器、その家に取りて大切の品をも心なく売り払ひ、また拝領の品をも厭はず質物に入れ、或は売物にもし、また御番(ごばん)の往返、他行(たぎやう)の節、馬に乗りしも止め、鑓を持たせしを略し、侍若党連れたるも省き、また衣類も四季節々(をりをり)の者、質の入替、または懸売りの糶(せり)呉服といへる物を借り込みて、漸く間を合せ、その甚しきに至りては、御番に出づる時は、質屋より偽りて取り寄せ著用(ママ)いたし、帰りたる時は、直ちに元の質屋へ返すなり(武陽隠士『世事見聞録』七一頁青蛙房)
 このように、武器はもちろん衣類まで質に入れ、武家としての格式を維持しえない人々が多かったのである。もちろん、幕府はこの状態を放置していたわけではない。倹約令を出して消費をへらそうとしたり、棄損令(一定の条件下で借財を棒引きにする法令)を出したりした。しかし、これらの対策では、旗本達の財政を安定させられず、時代と共に、困窮の度合はましていった。