B 旗本の借財

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 この旗本全体が困窮していくなかで、昭島市域を領地とした旗本だけが例外であるわけはない。旗本の困窮を端的に示すものに、彼らの借財がある。彼らは、普段の時でさえ、先に見たような生活を余儀なくされていたのであるから、臨時の出費-いわゆる冠婚葬祭-にたえうる貯えなど持ちあわせているはずはなかった。彼らはそのようなたびごとに、札差等に借財をしたり、村々から借用して乗り切ってきた。それがつもりつもれば莫大なものとなっていく。
 昭島市域を領知とする旗本の中で、借財の状況が少しでもわかるのは、拝島・田中村を領地とした太田、中神村の坪内、郷地村の中川である。この旗本達の借財状況を第1~4表にまとめてみた。年代・家格あるいは史料の性格などが異なり、相互を比較することはできないが、借財の内容を考えることはできる(註二)。

第1表 安政5年 坪内氏の借財


第2表 文化3年 中川氏の借財


第3表 嘉永2年 坪内氏の借財


第4表 天保14年 太田氏の借財

 旗本達の借財は、額に相違はあるものの、次の三種に大別しうる。すなわち、(一)幕府公金貸付、(二)商人からの借財(三)知行地農村からの借財である。
 第一の幕府公金貸付とは、郡代金・代官取扱貸付金・駿府金などをさす。これらの借財は、幕府の諸機関が、旗本財政を救済する為に、幕府の公金を貸し与えたものである。この公金貸付は、比較的長い返済年期が認められ、利子も市井の借財に比して安い利点があった。だが、一方ではとりたてはきびしく、他の借財に優先して払われねばならなかった。
 第二の商人借財とは、安政五年の坪内にある、越中屋とか大忠とかがそれにあたる。旗本出入の商人からの借財である。この借財は年利が高いことを特徴としている。
 第三の知行地農村からの借財とは、中川にみえる「相州両村ニ而出金」とか「郷地村ニ而出金」や、坪内の「中神村久次郎御用金」などをさしている。村全体が貸付主となることもあるが、村内の有力農民個人が貸付けることも多い。村全体が貸付主となる場合には高割(農民の所持石高に応じて一定の率がきめられる)や軒割(村にかけられた金額を、その村の家族数で割ること)に賦課された。先納金とか御用金とかの名目が付けられている。多くの場合、年貢米からさし引かれて返済する形式になっている。
 太田の場合はあきらかではないが、中川・坪内の場合、公金貸付や知行地からの借入れに比較し、商人からの借財が少額であることが注目されよう。なぜ商人借財が少ないのだろうか。第一の要因には、商人からの借財は金利が高く危険であることがあげられよう。そして第二に、商人は金利を目あてとして金を貸すのであるから、返済の可能性と相応の担保が必要となる。じつは両氏とも、商人の借財をなしうるような信用を欠如していたのではないだろうか。
 次に、おのおのの家の借財と、その収入や支出との関係を見てみたい。まず中川の場合をみてみよう。表を作成するにあたって使用した史料は、借財額ばかりでなく、「賄方雑用金」(月々旗本に送られる金額)が記録されている。その総計は金二四五両三分二朱と銭二貫五六四文であった。とすると、中川の借用金の累積額は、年間通常経費の約二・四倍に相当する。
 坪内の場合は、天保一四(一八四三)年の計算によれば約四七八両の知行地からの納金がみこまれており、安政四(一八五七)年には四三六両余の収入が実際あった。それに基づき計算すれば、借財総額は収入の約三倍に相当する。なお、坪内の借財は嘉永二年から安政四年の間で急速に減少するが、この理由は後述することにしたい。
 太田の場合は、三〇〇〇石という大身の旗本であるから、総収入も多い。慶応三(一八六七)年に書きあげられた知行地からの過去一〇年間の平均収納量(本年貢に諸物成を含む)は、米八〇〇石余、銭は永二〇〇貫文弱であった。(『神奈川県史史料編』8による)天保一五年当時も、平均収納量は大きな変化がなかったものと推定してよいであろう。この収納量を金に直せば、約千両になるであろう。とすると、太田の借財総額は、年間収入の実に三六倍にも達するのである。ただ太田の場合、後にみるように幕府の要職を歴任しているので、知行地からの収入以外に、役米やその他の臨時の収入があったであろうが、それにしても異常な借財額であるといわねばならないであろう。