C 旗本の年間収支状況

1031 ~ 1034 / 1551ページ
 旗本の借財状況を通じて、その財政がきわめて苦しいものであることを見てきた。そこでさらに年間の収支状況から、この点を確認していきたいと思う。
 中神の中野家には、旗本坪内の収支状況が判明する史料が残存している。それは中野家が、坪内の「勝手賄(かってまかない)」をしていたことによる。「勝手賄」とは、旗本に必要な金額を送金することをいうが、そのかわりに、旗本の収入はすべて「賄所」に送られてくる、そういう制度を呼んでいる。
 中野家に残存する史料では、「勝手賄」として実際に送金した額が判明するのは安政四年以降である。だが、天保一四年のその計画表が残存しており、中野家が「勝手賄」となったのは、ほぼ天保後半期と推定されるのである。残存する史料をまとめたのが第5表である。この表を説明するかたちで、坪内の年間収支状況を見ていきたい。

第5表 旗本坪内氏の年間経費

 まず収入から見ていこう。天保一四年には、年貢米を一両一石で換算して、四七八両三分と計算されており、安政四年には、四三六両三分二朱が現実に村々から納入され、中野家の手もとに入っている。残念ながら、この安政四年以降の収入についての史料はない。しかし、坪内の収入が、知行地の村々からの年貢・小物成だけにおうているかぎり、米価の変動によって多少の増減はあったにせよ、基本的数値は、万延ぐらいまでは変化ないと見てよいであろう。とすれば、万延二・文久二の両年も、多大な赤字を出していたと推定される。
 つぎに支出をみてみよう。支出総額は、各年次とも七~八〇〇両となっている。ただ万延二年のみが九四七両余と九〇〇両台にのっているが、その理由は、「役成入用」という臨時入用金二〇〇両にあった。
 支出は、(一)月賄金、(二)公金・諸借財の元利返済、(三)臨時入用の三つに区分される。「月賄金」とは、飯米や家臣団給金、旗本とその家族の呉服料や小遣などといった通常経費をさしている。この通常経費はかなり倹約がいきとどいていた。たとえば、旗本自身が自由にできる「小遣」は、月々わずか三分二朱でしかなかったのである。さらに表は、「その他」という項目をもうけたが、その主なものは米・炭などの代金である。これらも通常経費と考えることができるが、史料が別記しているので、それにしたがって別項目をたてた。
 表からみて特徴的なことは、まず第一に、「月賄金」の多さである。それは四~五〇〇両に達しており、知行地からの納入量と同額か、それを越える額であったことである。第二には、この「月賄金」は、年々増額する傾向にあるのに対し、諸借財の元利返済は逆に減少する傾向を示している。とくに、公金貸付以外は、極端に減額し、万延二年以降はなくなりさえしている。
 この二つの特徴点が意味するところを少し考えてみよう。まず「月賄金」の増大であるが、その理由は、幕末の物価騰貴にあったと考えることができるであろう。次に借財返済額の減少であるが、これは旗本財政の好転を意味するものではない。それは、これ以降も年々赤字財政であったことによって裏付けられる。ではなにゆえに減額したのであろうか。安政四年の「諸借財元利払」三四四両余のうち、三二〇両余は元金部分である。ここに商人借財を整理しようという意図を見い出すことができるであろう。
 この大胆な商人借財整理は、旗本坪内の意志というよりも、賄所である中野家の意志によるとみたほうが妥当であろう。中野家は、高利の商人借財をかかえ、その利子を年々払うことよりも、一挙に立替え、返済して、年々の赤字額を減少させるほうが好ましかったに違いない。当然のことながら、かつての商人借財は、いま新たに中野家に対する借財となった。さらに年々うみ出される赤字分も、すべて中野家への借財となるのである。その結果、先述したように、文久二年までには坪内は中野家に対し二二〇〇両余の借財をかかえることとなるのである(本章第三節参照)。このような措置がなされた結果、坪内は中野家に完全に依存する形となり、中野家の意向にそう形でしか生活しえない立場におち入ったといってよいであろう。