D 旗本財政困窮の要因

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 旗本坪内の財政状況は、きりつめられた通常生活費が、ほぼ知行地からの年貢収納量に匹敵していたこと、その上で蓄積された借財の元利払いや「役成入用」などの臨時入用が、赤字の直接的要因であることをみてきた。これは坪内にかぎらず、他の旗本達の場合も同様であったろう。
 では、なにゆえに旗本財政はこのような窮乏におち入ったのであろうか。ありふれた表現ではあるが、(一)都市生活・貨幣経済の影響、(二)米価と諸物価、(三)年貢収奪率の相対的低下、(四)商品生産・流通に対応する機能をもたなかったこと、この四点をとりあげることができよう。
 まず都市生活・貨幣経済の問題から概観しておこう。江戸への集住を強制された旗本は、いやおうなく都市の発達した貨幣経済にまきこまれざるをえなかった。すなわち旗本は必需品をすべて購入することによって生活していたのである。しかも江戸は、旗本を奢侈にする要件を多くそなえていたことをみのがすわけにはいかない。
 次に米価と諸物価の関係をとりあげよう。当然のことながら、旗本の収入は、知行地からあがる年貢を基本としていた。この年貢は、原則として米などの生産物で収められたが、昭島市域を含む武州一帯は、石代納(こくだいのう)という形式をとり、米のかわりに貨幣で収められていた。だがこれも米価に準じて石代納値段(幕府公定の張紙値段に準拠するので、実際の米価とは少し異なる)がきめられていた。だから、米価の上昇は、そのまま旗本財政を豊かにし、下降は窮乏化させる。旗本達にとって米価は、死活問題であったといえるだろう。日本人の主食である米は、幕藩制初期においては、諸物価の基軸という役割をになっていた。ところが、中期以降急激な商品生産の展開によって、この原則がくずれだし、米価安の諸物価高という現象が一般化しだしたのである。都市生活を強制された旗本は、安い米価による収入で、高い諸商品を購入しなければならない事態においこまれたのである。
 第三の年貢収奪率の相対的低下の問題を考えてみよう。これこそ、旗本財政窮乏の根本的要因であったといってよい。たとえば、中神村曾雌領一〇〇石組の年貢賦課量をみると、安永三(一七七四)年と天保一三(一八四二)年では、米五七俵一斗余、永八貫三一七文余とまったく変化がない(原茂洋治家文書皆済目録による)。定免制により免率が固定し、増免しえなかったことを示している。ただし、後にくわしくみるように米の賦課量は同じであったとしても、石代納値段を操作することによって、収奪量の増大させうる可能性はあった。だが、先にのべたような米価安、諸物価高騰が一般的傾向の時期には、この可能性を過大評価することはできない。
 安永から天保にかけて免率が固定されている間の化政期には、いわゆる江戸地廻り経済の発展があり、かなりの生産力増大があったとみなくてはならない。この生産力の増大した部分を、曾雌は収奪しえなかったのである。
 この免率の固定は、農民闘争の成果であるといってよい。中神村では、慶応二(一八六六)年の武州世直し一揆以外に、一揆闘争は存在しない。だが農民の闘争を、一揆というような激化したものだけと考える必要はない。日常的・合法的に訴願をくりかえすことによって、曾雌の収奪強化の試みを封じていたとみるべきであろう。さらに、全国各地で展開する一揆が、曾雌にも影響へ与え、年貢収奪強化策を放棄させたという一面も考えておく必要がある。
 最後に、商品生産、流通に対応する機能をもたなかったという問題を考えておこう。すでにみてきたように、昭島市域に住む農民達は、米・雑穀生産だけでくらしていたのではなかった。養蚕・織物業、あるいは駄賃稼ぎなどによって生計をたてていた。農民の「富」は、この商品生産・流通から生み出されてくるのであるが、石高制にもとずく年貢収奪方式では、この「富」を収奪することはできないのである。
 この商品生産・流通に有効的に対応する機能をもたないということは、封建領主層一般の弱点である。しかし、諸大名は、専売制を施行したり、流通課役を設定するなどによって、一定の収奪に成功していた。それは彼らが、一定の経済圏を構成している、広い領域を支配しており、相対的に独自な権力機構をもっていたから可能だったのである。小規模かつ分散した所領と、幕府の強い制約下にある旗本達には、このような政策を施行する条件がなかったのである。