A 旗本の収奪強化策

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 旗本達の財政再建への努力には、二つの基本的方向がある。すなわち、倹約によって支出を削減することと、収奪強化により収入の増大をはかることである。
 まず倹約の実態からみてみよう。坪内の場合、天保一四(一八四三)年と安政四(一八五七)年の通常生活費「予算」を示す史料が中野家に残されている。この史料を第6表にまとめた。この「予算」は、「勝手賄」である中野家が、坪内に倹約をせまってたてたものであろうと推測される。

第6表 旗本坪内氏通常経費予算

 天保一四年の場合でも、旗本自身が自由にしえる小遣いが、年間一五両であり、一ケ月にすればわずか一両一歩にしかあたらない。これで一一〇〇石取の旗本の格式を維持しなければならないのだから、苦しかったに違いない。しかし、まだこの年は、「武器買物」二〇両とか、「有時買物」二〇両というような項目が存在しており、若干の余裕があった。これが安政四年となると、一層きびしい倹約が要求されたことがわかる。予算全体が五七七両余から三〇〇両弱に減額されており、しかも、先にみた「武器買物」とか「有時買物」などの経費はなくなっている。諸生活費も急激に減少され、とりわけ旗本とその家族の私的生活費(小遣い、呉服料など)は、まっさきに削減の対象となっていた。天保一四年に旗本の酒料一二両が計上されていたが、これがなくなったことはいうまでもない。自由に酒さえのめなくなったのである。旗本の小遣いは一〇両に削減され、一ケ月あたり三分一朱余になってしまったのである。
 このような倹約をしてさえ赤字であった。しかも諸物価の高騰は、このような倹約の成果を無にしていく。先にみたように、万延・文久年間には、通常経費は五〇〇両台にまでのぼっていた。ようするに、倹約という消極的手段では、この期の財政的危機を乗り越えられなかったことは明白となった。
 つぎに収奪強化策をみてみたい。収奪強化策は、大別して二つにわけられる。すなわち、年貢納入量の増大をはかる場合と、先納金(せんのうきん)・御用金などの臨時課役徴収である。まず年貢納入量の増大であるが、かといって、検地などによって石高を増大させることや、免率をあげることは、すでに旗本のなしうるところではなかった。そこで旗本達は、石代納値段を操作することによって実質的な収奪強化をはかろうとした。あるいは、古来から川欠などで損地(無年貢地)となっている場所を復興・再調査し、年貢賦課の基準となる石高を増大させようとした。
 このような事例は、中神村の坪内や大神村の土岐にみられる。文政一一(一八二八)年一〇月三〇日、中神村の中野久次郎(まだ「勝手賄」をしていない)は、臑折村の仁右衛門らとともに旗本坪内のもとに呼びだされた。それはこの年の年貢の石代納値段を決めるためであった。村をたつ前に、八王子などの米価を調査していた久次郎は、仁右衛門らと相談して、一両に八斗八升替と上申した。これに対し旗本は、一両に七斗八升替と主張し、おりあいがつかなかった。翌日ふたたび久次郎らが旗本のところへ出向くと、旗本は一両に付八斗三升替を主張し、それでも納得しなければ、石代納方式をあらため、米でおさめることを要求した。さらにおいうちをかけるように、久次郎へ達書が届いた。その達書の内容は大略次のとうりである。
 以前中神村は年貢米を九九俵余おさめていたが、最近八九俵しか納めていない。なぜ一〇俵余の用捨米が生まれるようになったのか、その理由を調べて提出せよというのである。しかも、その理由が「川欠」(洪水によって不耕作地となったもの)の場合は、その土地が本人の所持高の一〇分の一以下であれば、相当の年貢を納入しなければならないというのである。
 このように、旗本坪内の年貢増徴の意志は、きわめて強いものがあった。また農民にとっても、多少の石代値段の上昇よりも、米を納めるほうが苦しかったのである。なぜならば、旗本に納入する米は、上質のものが要求され、俵や数量の吟味が厳しかったからである。中神村では、旗本が要求するような上質米を多く産出することができないから、中・下級の米を売り、上質米を購入して年貢として払わなければならない。あるいは、米穀を江戸へ廻送する費用も少なくないのである。その上に、地廻り経済圏の発達、とりわけ八王子市場向けの織物業が発展していた当時は、田を畑地と化し、稲をうえるかわりに桑や野菜などを植えていた農家もあったに違いない。そのほうが換金するのに有利だからである。このような人々は、年貢のために米を購入しなければならないのである。一一月二日、久次郎と仁右衛門は、石代納制を維持するためについに旗本の要求に屈服し、石代納値段を一両に付八斗三升替とする請書を作成して提出したのである(史料編一三二)。
 同様なことは、土岐の支配する大神村でも発生した。万延元(一八六〇)年、土岐は大神村に対し徴租法を改正する旨通告した。
 すなわち、旧来は張紙値段により石代納としていたのを、今年から改めて現物納とし、役人が出張してその米を農民らに売却するというのである。この触は、農民達をおどろかせたに違いない。人々はこの新しい徴租法に反対する訴状を提出した。その後の大神村の人々が、この徴租法に反対し、どのような手段をとったかは不明である。結局のところ、張紙値段に五両を増すことで双方妥協したようである(史料編一三〇)。
 坪内も土岐も、現物納に改変すると強迫することで、年貢増徴に成功したのである。旗本達は機会があるごとに、このような方法を駆使して、年貢増徴をほかろうと腐心していたのである(註三)。
 しかし、旗本の収奪の比重は、このような基本的年貢収奪から、御用金・先納金などの課役に移りつつあった。御用金とは、領主が財政上必要としたとき、領内の商人や有力農民に献金をもとめたものである。借財という形式をとる場合もあるが、献上金として未返済のことも多かった。一方先納金とは、旗本が農民から年貢を先借りする形式をいう。それは年内の年貢の場合もあるし、数年先の場合もある。先納金は、毎年一二月の年貢納入期に利をつけて返済される筈であったが、財政窮乏の旗本は、とどこおらせることが多かった。
 この先納金がいかに広範に展開されていたかは、維新政府が統治をはじめた明治元(一八六八)年の一〇月、つぎのような法令を出さざるを得なかったことから知れる。
  旧幕旗下(本)上知、当秋御収納之儀ニ付、先達而相触候当年之分、不残朝廷江貢献可致与之儀ハ、地頭勝手を以、先納・先々納申付候村方茂有之、難儀可為候ニ付、右之分ハ御収納高之内三分一被免、其余者村方ニ而弁金上納可致候、尤三分一以下ニ相当候先納金有之村方者、右先納金差引、残金上納……(以下略)(史料編一三三)
 新政府が樹立されたのであるから、年貢はこの新政府に納めねばならない。しかし、幕藩制下において旗本が先納金をとりたてていた村々は、苦況におち入らざるを得ないから、年貢の三分の一まで控除し、その余を納入すればよいというのである。
 昭島市域を知行地としていた旗本達も、この先納金を賦課していたことはいうまでもない。第7表は、天保一三年までに、田中村が太田に納入した先納金のうち、未返済で残されたものである。田中村の太田知行地は、一三四石余であり、家数も三六軒であったから、二〇〇両近い先納金が未返済であったことの重要性がわかるであろう。またこの先納金が支払われたのが、天保飢饉のさなかであったことも忘れてはならないであろう。

第7表 田中村先納金一覧

 この御用金や先納金を納入することは容易なことではなかった。通常の年貢納入期とは異なり、農村に現金が入る時期とかかわりなく、ただ領主の都合で賦課されるのであるから問題は大きかった。先納金を払えない下層農は、村役人達から借財をして払ったであろう。それでもたりない時には、周辺村落や八王子の商人から借りてでも払わねばならなかった。
 たとえば、嘉永六年田中村の栄次郎が、大神村の嘉右衛門(中村家)に五両の借財をしたときの文書が、乙幡ツネ家に残されている。その文書には、借財の理由として「地頭より先納被仰付」と明記されている。あるいは中野家の『諸用日記控』(天保五年)には、「大神八郎右衛門殿来、種々地頭所御用金事、其外きん事及相談申也」と記されており、八郎右衛門が旗本から賦課された御用金にこまり、中野家の援助をもとめたことが判明する。このように、旗本の御用金・先納金賦課は、村内の階層分化を助長し、豪農の利貸活動のかっこうの舞台となるのである。
 この御用金や先納金も、旗本が円滑に返済しているうちはまだよかった。ひとたび返済がとどこおれば、農民達は債権者からきびしいとりたてを受けるのであり、訴訟沙汰になる場合さえあった。文政三(一八二〇)年、拝島村・田中村などの太田知行所六ヶ村が、町奉行所に提出した文書にはつぎのような一節があった。
  関東[   ]村々江先納金借□被申付、他借いたし其時差出来候、…(中略)右先納地頭所江下金相願候へ共、地頭所之義も物入相嵩(かさみ)、殊之外差支有之節ニ而、下金無之候間、地所書入者流地いたし、弥増村々困窮及難義候(史料編一一四)
 地頭所から申し付けられた先納金を他から借りて納めた。その後、先納金の返済を求めたが、旗本も困窮していて返済してくれなかった。そのために、質地として書入れしていた土地が流れて、他人の手にわたってしまったというのである。
 このような事態におち入る危険性は、先納金や御用金にかぎらず、公金をも含めた旗本の借財一般にあてはまることである。なぜならば、完全に財政的信用を喪失していた旗本が借財をする場合は、最も確実な担保物件として、知行地からあがる年貢を入れたからである。ようするに、旗本は金を受けとり、返済は知行地農民がするのである。ただし、返済期間中は、返済額だけ年貢から控除される。もちろん、農民達は、とどこおりなく返済する旨の証文を、債権者に入れなければならなかった。
 この関係は円滑に展開しないことが多かった。旗本は窮乏のあまり、返済にあてるべき貢租を彼の手もとにあつめたからである。とすれば借財の返済がとどこおることはいうまでもない。債権者は、返済を約束する証文を入れた知行地農民を訴えることになる。たとえば、文政三(一八二〇)年武州埼玉郡梯木村名主惣兵衛が、太田知行地武相六ケ村の名主を訴えた「仕送り金滞出入」はその例である。(史料編一一四)
 この事件は、文化一一年太田が梯木村惣兵衛に勝手賄を依頼し、賄村として武相六ケ村を指定したことからはじまった。武相六ケ村の知行地は、旗本の指示に従って惣兵衛に貢租を納めていたのであるが、翌一二年の七月、太田は急に態度を改め、以後直接地頭所に貢租を納入することを求めてきた。理由は惣兵衛が賄金を滞らせたというのである。そして、惣兵衛に対する借財は、太田のほうで返済することとした。ところが太田は、惣兵衛に対して借財を返済しなかったのである。こまった惣兵衛は、証文を入れた武相六ケ村の名主を、幕府評定所に訴えたのである。評定の結果、非が太田にあることが認められ、文政四年済口証文がつくられ、太田が三〇ケ年賦で借財を返済していくことが約束された。
 この場合は、旗本の非分が認められたので、旗本借財を知行地農民がひっかぶるという最悪の事態はまぬがれた。しかし、江戸によび出され裁判を受けるという、精神的・物質的被害は少なからぬものであったろう。しかも、このような事件は、一度ならずあったのである。嘉永三年には、妙法院宮家来村岡外記によって田中村が五〇両の滞納を訴えられた。(史料編一一八)また、万延元年には、日光奉行からの拝借金をとどこおらせて、日光の役人が取立に来る(史料編一二三)などの事件にまきこまれているのである。
 以上簡単に旗本の収奪が、知行地農民を苦しめる姿をみてきた。このことによって、本節冒頭にみたように、上川原村の農民達が、幕領から旗本領へ移管されようとした時、抵抗した理由がわかったと思う。しかし、旗本領の問題点はまだある。たとえば、天保飢饉のところでみたような、「御救い」機能の後退、あるいは普請や荒地開発に資金を投下しえないことなど、領主の勧農機能の後退も、農民の生活に影響を与えたのである。