B 旗本の家政改革

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 旗本の財政窮乏打開策を種々みてきた。しかし、一九世紀に入ってからの旗本財政は、個別的政策のつみかさねなどによっては打開の糸口さえみいだしえないほどに深刻なものとなっていた。旗本達は、財政再建のためにより根源的な対策をたてる必要にせまられていた。その対応策が「家政改革」とよばれるものである。そこで坪内・太田の「改革」を簡単にみていくことにしよう。
 坪内の家政改革は、中神村の中野家を「勝手賄」としたことと同義であったように思われる。中野家の「勝手賄」については、先にふれたが、ここで再度簡単にまとめておこう。「勝手賄」中野家の活動は、累積する借財の整理と、旗本坪内への倹約要請であった。とくに前者は、安政四年の一年間で商人借財の大半を返済し、公金貸付もとどこおりなく返納することで額をへらすことに成功したのである。もちろんその活動を、知行地からの収入で遂行することは不可能であったから、中野家の資産をそれにあてたのである。この結果、坪内の借財は、ほとんど中野家だけに集中することとなり、文久二年にはその額が二二〇〇両余にも達していくのであった。その結果坪内は、中野家に全面的に依存することでしか生活を維持することができなくなっていったのである。
 太田の場合も、「勝手賄」の制度を利用していた。管見した史料の範囲でも、先述した梯木村の惣兵衛のほか、渋谷市右衛門や栗原村の大矢弥市などが「賄」をしていたことが確認される。しかしながら、太田の石高は三〇〇〇石であり、坪内の一一〇〇石の約三倍である。当然のことながら、財政規模は比較にならないほど大きい。さらに借財総額も、天保一四年当時約三六〇〇〇両あったから、財政をささえてくれる「勝手賄」をみい出すことは容易ではなかった。またたとえ「勝手賄」を制定しても、円滑に返済しなければ、「勝手賄」そのものが、重圧にたえかね危機におち入る可能性があった。先にみた梯木村の惣兵衛は、「勝手賄」を一年ほどしかつづけられなかった。
 このように、太田の財政再建は、坪内以上の困難をともなうものであった。太田の本格的な家政改革は、安政年間に展開した。史料編一二〇~一二二にのせた史料が、この家政改革を示している。ところで、太田の家政改革においてもっとも特徴的なことは、太田の本家にあたる掛川藩の関与であろう。もっとも掛川藩が太田の財政に関与したのは、この安政期がはじめてではない。すでに天保六年には、太田の借財の仲介を掛川藩が行なっていた。(『神奈川県史資料編』8による)
 この安政家政改革の開始の事情は、つぎの史料に示されている。
  去辰年中(安政三)御地頭所様右村々一同より無余儀御当家(本藩掛川藩)様江御勝手向御仕方(法)替之義奉御歎願候処、格別之以御憐愍御賄方御仕法替之義御取用御聞済被遊……
 この史料によれば、安政三(一八五六)年に旗本太田とその知行地武相六ケ村が、掛川藩に家政改革の援助を求め、掛川藩もそれを了承し、改革に着手したのである。
 ところで安政三年といえば、乙幡ツネ家に別の史料が残されている。すなわち、この年新たに「勝手賄」として渋谷市右衛門が就任したことを、知行地に知らせた触の写しである(史料編一二〇)。この両者がまったく無関係だとは考えられない。この渋谷の「勝手賄」就任こそ、家政改革の中核的政策であろう。とすれば、掛川藩の太田家家政改革への関与とは、掛川藩ゆかりの渋谷を、太田の「勝手賄」として送り込むことにあったといってよい。
 この渋谷は何者だろうか。詳細はまったく不明であるが、「勝手賄」となったところからみて武士とは考えにくい。掛川藩の御用達商人として、藩の勘定方機構に参画していた人物ではないか。
 だが、安政六年に、突如掛川藩は、太田の家政改革から手をひくと通告してきた。残念ながら、なぜ掛川藩がこのような通告をしなければならなかったのか、その理由を明らかにすることはできない。史料は、「私共心得違ニ而御仕法ニ振候」としか説明していないからである。推測するに、「勝手賄」渋谷の方針に、知行地の村々が従わなかったのではないだろうか。
 この掛川藩の態度は、太田をおどろかしたに違いない。掛川藩とそれにつながる渋谷に去られては、財政再建どころか生活費までことかく事態が出現しかねなかったのであろう。そこで太田は、知行地農民を懸命に説得し、掛川藩の家政改革への復帰を求める訴状を提出させた(史料編一二二)。また、掛川藩(実行者は渋谷)の指導下で展開する家政改革の方針を、知行地の農民に周知徹底させるために触を出した。それが史料編一二一であろう。
 史料編一二一によって、家政改革の意図するところを簡単にみておこう。政策の第一は、知行地農民が「月並金(つきなみきん)」(月々に旗本に送金する費用、多くは通常生活費につかわれる)を正確に送金することを求めた。その額は、六ケ月で二三二両余と米三〇俵である。
 第二には借財等を返済するために必要な金三〇〇両を、豊かな農民を選び彼らから御用金として調達することであった。さらに、第三の政策として、嘉永二年一〇月以前に知行地から納入された借財は、元利とも五ヶ年すえ置き、六ヶ年目から返済することとした。これらの諸政策によって、現在かかえている財政問題を解決するとともに、知行地支配を強化し、長期にわたる安定した収奪体系の確立をめざした。とはいっても、その方法はとりたてて新しいものではない。(一)収納米の厳選、(二)荒地復興の奨励、(三)信賞必罰という三原則の徹底である。
 また無尽(むじん)を設置したのも重要な政策といえる。この無尽の目的については、「田地請戻金ニ融通致、其外夫食・肥代等差支候者江も融通致申度」とのべている。無尽は次のような組織である。
  講の一。親と称する発起人が講中・衆中などと呼ばれる数人-十数人の仲間を募集して講をつくり、定期的に会合し、一口定額の懸銭、合力銭を出し合い、これを入札した上、初回には親が、以後は講中で抽籤により落札する。落札者は以後落札の権利を失い、懸銭のみ出し、衆中全員が落札すれば解散する(後略)(『日本史辞典』角川書店第二版)
 この親に旗本がなった。落札者は、一時にかなりの金額を入手しえるから、先述の目的が遂行されるというのである。ところで、幕藩制解体期に旗本や大名は、この無尽を数多くおこなった。その場合、多くは取除(とりよけ)無尽という形式をとった。すなわち親である旗本らは第一回に落札して以後、懸銭を払わないのである。これではもちにげであり、新種の収奪であるといってよい。太田の無尽について、その詳細はわからないが、他の旗本の例からみて取除無尽である可能性が強いといわねばならないであろう。
 このような内容をもつ太田の家政改革が、どのような結果をもたらしたかは、史料的に確認することはできない。掛川藩の助力にもかかわらず、財政再建という大目標は完遂されなかったのではなかろうか。それは、幕末期になると、じつに多量の金が知行地に御用金等として賦課されていることから推測されるのである。