幕藩制解体期に旗本財政が極度に窮乏していたこと、それを打開するために、種々の収奪強化策がとられたことなどをみてきた。それは、知行地農民の負担を増大させたのであるが、終局的目的である財政窮乏の打開にはいたらなかったのである。そして、坪内に典型的にみられるように、豪農に寄生することによって、かろうじて生計を維持するに到ったのである。
このような旗本の状況を、たんなる財政的危機と表現することは適当ではないだろう。すでに旗本の存在そのものの危機段階に移行したとみてよいのではなかろうか。もちろん旗本より下層の御家人層は、より深刻な危機に直面していた。
いうまでもなく、この旗本と御家人こそ幕府の政治的・軍事的基盤であった。しかし、このような状況にある旗本・御家人が、幕府に対して充分な「奉公」をする余裕はなくなっていたであろう。むしろ、自分達を窮乏のままに放置する幕閣に対し、否定的感情をもったとしても不思議ではない。かといって、旗本・御家人の多くは、幕政に対し積極的に抵抗することもせず、やり場のないいかりを、「非行」や「怠惰」のなかで解消していった。ただ一部の人々のみが、幕政批判の行動に立ち上がった。大塩平八郎の乱は、その最も突出した事件として位置付けることができるであろう。
このような旗本・御家人の問題は、幕府が欧米資本主義列強や西南雄藩と軍事的に対決しなければならなかったとき、深刻な問題として政治日程にのぼってきたのである。すなわち幕府直属軍である旗本・御家人は、財政的にも精神的にも無能であることを露呈した。幕府は、この問題を解決するために旗本・御家人に対して財政援助を行なう一方、兵制改革を遂行する必要にせまられた。農兵制や兵賦などがそれであるが、この問題については、章を改めて五章で論じることにしたい。
註補
一 『東村山市史』には、江川代官所管下の幕領を私領化しようとする試みに対し、多摩郡四一カ村の代表として蔵敷村名主杢左衛門と岩岡新田民右衛門の両名が、支配の継続を願って馬籠訴した事件があったという記述がある。(同書五八八~九頁)上川原村をはじめとして、昭島市域にはこの事件が関する史料は残されていないが、参加四一カ村のうちに含まれていた可能性は高い。
二 本節では、複数の旗本を並列して論をたてている。旗本の全体的傾向は同一だったとしても、個別性を尊重しなければならないことはいうまでもない。本稿の最大の欠陥は、個別性を論じられないことにあるが、それは史料的制約からやむを得ない措置であった。
三 万延元年大神村から出された旗本土岐への訴状に、つぎのような一節がある。
「右御年貢米之儀者七ヶ年前寅年(安政元年)中右同様被仰付候処、両村(大神、吹上村)村役人共罷出、所柄難渋之趣を以申立奉二歎願一候処……以来共御張紙値段を以可レ為二上納一旨御下知書頂戴仕」
このように、土岐はすでに安政元年には年貢増徴を計画したのであるが、農民の強い反対にあって挫折していたのであった。