A 昭島における在村文化の出現と「化政文化」

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『露草双紙』(郷地町宮崎直次郎家所蔵)

  耳もさのみうとからず、おとなしやかに健(すこや)かなる老婆也          (『新百家説林 蜀山人全集』)
 これは文化五(一八〇八)年二月一六日、昭島市域のとなり八王子の女流俳人榎本星布尼を、江戸の文人南畝大田直次郎(蜀山人)がおとずれたときの印象である。その三年後文化八年、星布尼はすこやかに八〇歳の春を迎えた。これを祝う多摩の在村俳人たちは、四〇〇余りの句をよせて八〇歳記念句集をあらわした。『春山集』となずけられたこの句集に、市域から田中村吉従矢島定右衛門ら一三人の俳人が参加した。その村名と俳号は、つぎのとおりである。
  田中村   吉従  文思
  拝島村   聞之  梧眠  枝鳩  無角  如水  文秋  熊飛  英  竹子
  上川原村  里耕
  郷地村   宇多ゝ(うたゝ)                 (文京区芭蕉庵松宇文庫所蔵本による。)

『春山集』

 右の文化年間『春山集』の一三人の俳人につづいて、近世終末までの約六〇年間に、今わかっているだけでも、一〇〇人分をこえる多数の俳号が市域村々でみつかっている。村の規模としてはもっとも小さい上川原村(石高八八石余)でも、二〇をこえる俳号がのこされている。村人があつまってひらいた句会の記録である「句合」も二、三の村から発見された。一人で何冊もの句帳に膨大な数の句をかきのこしているものもいた。(第1表参照)

第1表 昭島市域村々近世俳号一覧

 近世後期の昭島市域にはあきらかに、村民みずからの手になる文化的な活動がひろまっていたことになる。これをとりあえず「在村文化」と名づけてみたい。
 市域の在村文化が、はっきり史料にあらわれてくる文化年間(一八〇四~一八)と、それにつづく文政年間(一八一八~三〇)は、日本文化の歴史のうえで、一つのまとまった特徴をもつ時期としてとらえられている。それまでの文化は、上方の上層町人を中心にさかえた「元祿文化」が頂点となっていた。文化・文政期(化政期)には、上方の京・大坂(阪)にかわって文化の中心が江戸へうつるとともに、地方小都市からさらに農村へもひろまった。文化の担(にな)い手も、中下層町人へひろがるとともに、農民がこれに新しく加わってくるのである。『春山集』にあらわれてくる市域の在村俳人たちは、この新たな画期をなす「化政文化」の一翼をささえていたことになろう。