B 近世社会と在村文化

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 市域の村々でもそうであったように、当時の俳諧は農村独自のものではなく、都市町人文化の模倣にはじまるものであった。また文学~芸術であるとともに、娯楽~遊びの要素もつよかった。夜を徹して句会をひらき、有名な宗匠を判者にまねいて各自の句に点数をつけ、上位点者には賞品をだし、賭け事の対象ともされていた。出費も大きかつた。都市町人なみに俳諧にふけりすぎて、身上(しんしょう)をつぶしてしまう例も稀ではなかったから、近世社会の伝統的な考え方は、農民が俳諧の道に入ることに否定的であった。
 とくに幕府諸藩の本来の規定では、お上(かみ)の法度をまもり、農業に専念労働し、きめられた年貢を完納すること以外には、一切手をだすべきではないときびしく強制されていた。そうした規定をみずからすすんで守ろうとする百姓を、幕藩領主たちは「律義(りちぎ)百姓」とよんでいた。律義百姓こそが幕藩領主からみた農民の理想像のはずであったから、俳諧をたのしむような文化的活動などは論外のことであった。幕末にいたる時期でさえも、農民がふみおこなうべき道徳があらためて説かれるときには、たとえば下総国(千葉県)の国学者名主宮負(みやひろ)定雄の『民家要術』が、「俳人は陰気になりて行脚(あんぎゃ)を心がけて、皆己(おのれ)が職分を怠る様になるは、甚(はなはだ)心得違ならずや」といっているように、漢詩文・和歌・俳諧などは百姓の職分・本分をおこたるようになる原因だと考え、これを百姓がおこなうことは非道徳的なことだとして、否定するのがつねであった(もっとも、ばくちをやめさせる助けになるていどはかまわないといっているが)。
 しかし現実には、昭島をふくむ関東農村でも、俳諧を積極的におこなう農民が大勢あらわれていた。それは、文学・芸術としてであれ、娯楽・遊びとしてであれ、また都市文化の模倣としてであれ、事実上は封建的身分制の枠をなしくずしにすることであった。このような事情は、次々項(D)で示すとおり俳諧だけにとどまるものではなかった。それらは全体として、近世農村社会の伝統や規制を変えてゆく社会風潮であり、近世文化のありかたを変える文化現象であった。こうした農村特有の状況のなかにひろがっていた文化現象を「在村文化」と名付けるとすれば、近世後期農村に、「在村文化」を成立させるべきどのような要因が具体的にあらわれつつあったのか、どのような農民がにない手になっていたのか、市域村々をふくむ多摩~西武州地域を中心に考えてみよう。