C 在村文化をになう人々

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 在村文化をになう人々は、現実の農村社会のなかではどのような立場にたつものであったのか。昭島市域のばあいのこされた俳諧史料のほとんどには、ただ俳号のみが記されているだけである。第二節二項で紹介する二・三の例をのぞけば、その現実社会での実態は、ほとんど知ることができない。しかし昭島市域をふくむ西武州には、俳諧史料としてはめずらしく、俳号のほかに実在人名・生業・社会的立場やその他の教養・文化の実態を、列伝風に記した俳書がつくられている。昭島でもよまれていたらしく、大神町石川善太郎家にのこされていた。多摩郡の北どなり、経済的にも交流のふかい入間郡谷ケ貫村の、「盛月」という在村俳人らがつくったものである。『新撰俳諧三十六句僊』(弘化三(一八四六)年刊)という題がついている。

『新選俳諧三十六句僊』(石川善大郎家所蔵)


『同書』所収の拝島本覚院住僧景山

 その記述は、短いものであるがたとえばつぎのようである。
  晩香舎烏雄、北武蔵血洗島の住、氏は渋沢、通称市良右ヱ門といふ。藍玉を鬻(ひさぎ)て家栄ゆ(渋沢市良右衛門は、のちの実業家渋沢栄一の父親にあたる)。
   栲廼屋(たくのや)音好 武蔵中神産(入間郡中神村)、江府神田に住す。浅美氏。武陽連判者也。双樹古人の后、歌を怠、逸渕に随ひて連句に心を寄す。生花は寛松斎の垣にゐて松濤斎一楽云。肥後御屋敷へ御出入にて絹布を鬻。
 このような調子で「三十六歌仙」にちなんで選ばれた三六人にさらに一四人を加えた総計五〇人とその句の紹介が、絵入りでつづいている。市域からは、「景山 武蔵拝島駅本覚院の住僧也」という人物だけが収録されているにすぎないが、一九世紀前半の、武州の著名な在村俳人の社会的実態を、かなりよくよみとることができる。その生業をまとめ表にしてみると、第2表のようになる。(不分明な記載をのぞく。)

第2表

 (1)は、江戸周辺のいわゆる地廻り経済圏にあって、農村の商品生産・流通にたずさわっているものがほとんどである。絹商などには、「音好」のように江戸に出店をひらき問屋・仲買・小売機能をあわせもつような、かなり有力商人もふくまれている。製茶業は、文化年間から江戸へ売込まれて名声をたかめつつあった特産物としての狭山茶の栽培・精製・販売である。四友は文化人必需品の筆・墨・紙・硯のことで、おそらく在村文化人を相手とする商売が十分になりたっていたのであろう。
 いずれにせよ(1)の百姓身分のものが、女性三人をふくめて三六人という圧倒的な多数をしめている。村のなかでの位置は、その多くが村役人層にぞくしているものと思われ、現役の名主として「村長(むらおさ)」・「庄家」などと紹介されているものもふくまれている。