同書には俳諧とともに親しんでいた文化的な活動として、つぎのようなものが紹介されている。
和歌 国学 茶道 活花 狂歌 浮世絵 剣術 戯作
これらは、化政期農村の村役人層などにひろく親しまれていたものらしく、昭島市域の史料も、少なくとも和歌・国学・戯作・活花・狂歌・剣術・易学などがおこなわれていたことをしめしている(和歌・国学については後述。戯作は第二節第五項、剣術第四節三項を参照)。そのほかに昭島では、「旋頭歌」(和歌の一種で五七七五七七調)・「どどいつ」(俗謡の一種で七七七五調)などもおこなわれていた。読本(よみほん)(化政期にはやった小説の一種)の著述なども、顕著な文化的活動としてあげることができる。
つまり、江戸などを中心とする都市町人文化が、ほとんどそのまま武州の地方農村に、おこなわれていたことを示している。その水準については、たとえば天保期『江戸愚俗徒然噺』のつぎのような記述があてはまるものであったと見てよいであろう。
譬(たと)へ在郷宿或は入の小村といふとも、儒者も能書も諸芸の上手もなきにあらず、最早三四十里も出ては所々に沙汰する、殊の外上品の村など有(ある)ものなり、連歌の俳諧の香茶の湯乱舞のと種々の遊楽に居るもの多く有(ある)村、是また数ふべからず、人気とても江戸の近在よりおんとう(穏当)にして物事せはしなからず、其日暮しの貧人もすくなし、又諸芸に上達するものも遠き田舎在郷に多しと知るべし、もっとも不自由なる事は、いか成(なる)繁昌の土地なればとて、江戸まさりといふはたとへにて、江戸同前ともいひがたし……依て訳なく田舎を侮(あなど)りいやしみ思ふが、是も能々(よくよく)勘がへ見べし…… (『未刊随筆百種』十三所収)
地方の宿場・農村でも、儒者・書家・諸芸達者が少なくない。とくに江戸人の目につきやすい近在(向島・王子・堀の内など今の都区内が例示されている)よりも、人々の気持が落着いており、極端な貧乏人も少ない。だから諸芸の高い水準に上達するところが、かなりはなれた田舎在郷にある。その水準は江戸と同等というわけにはいかないが、そうかといってわけもなく田舎をあなどるのはまちがいだ、という趣旨である。化政期~天保期の在村文化は、このように全国的に盛況をみせていたのであり、昭島市域の村々の俳諧をはじめとする諸芸も、その一駒であったわけである。
これら在村文化の高水準は、江戸文化人と積極的な接触をたもとうとする在村の人々の努力によって保たれたものであろう。先の三六名のうちにも、当代随一の江戸文人である滝沢馬琴と交りをもっていると紹介されているものがいる。馬琴(一七六七~一八四八)は、化政期~天保期に活躍したもっとも人気のたかい読本(よみほん)作家で、多くの地方在村文化人が好んで交際をもとめる相手としても当代随一であった。昭島市域でも、俳諧・国学に関心の高い田中村矢島定右衛門(俳号吉従)という豪農の一人が、江戸の国学者清水浜臣に時々学んでいたことが知られている(第二節参照)。
以上、こうしたかなりの水準の高さをたもちつつある在村文化のにない手たちは、ほぼつぎのような特徴をもつ「豪農」だと結論ずけてよいであろう。
(一) 百姓身分であること
(二) 村役人など村落支配層にぞくすること
(三) 江戸地廻り経済圏にあって、商品生産・流通・金融などにたずさわっていること
こうした豪農は、なぜこの時期にさまざまの文化活動に急速に傾倒してゆくのか、とくに昭島市域をふくむ関東農村では、どのような社会的経済的事情がはたらいているために、そうした傾向がいちじるしくあらわれるのか、ということを考えてみよう。