ここで、在村文化成長の背景を考えるのに必要な範囲で、近世中期以降における村落秩序の変化の様相をまとめてみよう。
全国的な商品生産・流通の発達、とりわけ関東においては、いわゆる江戸地廻り経済圏の発達がすすむなかで、それまで村落を構成してきた本百姓に、つぎのような変化があらわれていた。すなわち、経済的に上昇をとげてゆく豪農と、下降を余儀なくされる貧農に、分解してゆく傾向である。
まず村の本百姓の上層は、名主など村役人層としての村落支配と農業経営の有利さおよび貢租の相対的な軽さを土台としながら、農間稼ぎの名目で商業・醸造業などに手をのばしはじめていた。村と江戸との流通過程も占めて、小農民の生産する新しい商品作物を集荷・仲買して、江戸や市場町へ売りこみ、その利益をにぎった。手に入った富のかなりの部分は質物をとる利貸しにまわされ、小農民相手の村方金融業をいとなむ資金ともなった。原料・道具・生活費などを前貸しして織物家内手工業を小農民家族にやらせ、前貸しの代償のような形で生産物を独占する問屋制家内工業もいとなんだ。
百姓身分に固定されていたものが、こうした新しい生産・技術・分業・流通・交通などの諸活動に傾倒してゆくことそれ自体が、とりもなをさず新しい「文化」の重要な一駒であった。そこに在村文化の特質があった。経済的諸活動の舞台が、江戸や地方城下町・宿場町・市場町など村落の外の空間にひろがってゆくことそれじたいが同時に精神の拡大であり、中央文化の摂取・受容の契機であり、在村文化の成長する姿そのものであった。
さきほどの『新撰俳諧三十六句僊』に登場した俳人たちは、まさに右のような変化をとげつつある村落の上層農民を中心にしていた。こうした新しい型の農民を、経済史の上では「豪農」または「豪農商」などとよんでいる。
豪農の成長は、とりもなおさず、豪農の新しい経済活動~致富活動にくみこまれてゆく中下層農民の数が、ふえてゆくことでもあった。中下層農民はもともと所持田畠が少ないうえに、本百姓として同じ年貢率の貢租を負担していたから、農業経営にはきわめて不利であった。豪農らの利貸しに頼らざるをえなくなるだけでなく、経営を補完するべき商品生産も、豪農の仲買・前貸しなど新しい経済支配に利益の多くを吸収されてしまう状況におかれていた。かれらの多くは、わずかばかりの田畠をもしだいに手放すようになり、下降~没落の傾向をたどっていくのである。
近世の幕藩制社会における本来の村落は、大小の差こそあれ同じ質の本百姓で構成されているものであった。本百姓の義務としてさだめられた法度順守・農業専念・貢租完納が、武士の直接的武力強制なしでも、村役人を中心に順調に保たれてゆくことが、村落秩序の理想の姿のはずであった。ところが本百姓各層が、さきのような新しい経済関係のもとで、上昇する村役人=豪農層と下降する小百姓=貧農層という利害相対立するものにわかれてゆくことは、それまで正統とされてきた村落秩序・農民道徳を大きくくずしてゆく最大の力となったのである。
こうした現象は、全国どこにでもおこりつつあったが、昭島市域の村々がぞくする関東農村では、つぎのような理由で、とくに激しく進行していたのである。
徳川氏は、江戸の将軍権力を編成する最大の地盤として、関東の支配にはとくに意をもちいた。幕府直轄領と親藩譜代の大名領および幕府直属の軍事編成をなす旗本の知行地をおいたが、その数をおおくして分断支配をつよめたうえ、幕権の確立・維持のために、新給や所替えをひんぱんにおこない、入組み・分散状態にした。その結果、中世的な領主権・村落間結合を分断~根絶でき、幕権はつよまったが、一つの領国としてのまとまった領主権、とくに日常的な武力のはたらく警察的機能が、直接的には作用しにくくなる要素を内にはらむこととなった。
さらに幕権強化をはかった「地方直(じかたなお)し」(第一章第一節参照)がおこなわれ、多くの中小旗本は、知行する村はあてがわれていたものの、たんに収納年貢をうけとるだけで、日常的な在地支配からは遠ざけられた。管轄地に強力で恣意的な直接支配をおこなっていた給人代官制も改められた。代官は、江戸屋敷に常住したままの、たんなる収税官吏のような存在になった。
こうして関東農村は、幕府最大の権力基盤であったがゆえに、他地域とことなる非領国的性格をもつようになった。日常の支配は、旗本・代官の直接の武力にかわって、法の規制力にたよる面が他地域以上につよくなった。法度を順守し農業専念・貢租完納を実行する責任が、名主など百姓身分の村役人と、その下に統率される村落共同体にゆだねられる度合もいっそうつよかった。
こうした領主と村落のありかたは、近世全体の特徴として全国的にみられるものだが、幕府膝下の関東では、入組み分散した個別領主権の稀薄さのうえに、ひとつながりの広大な平野で、一律に強力にすすめられたため、これをくずす近世中期以降の社会的経済的変動のあらわれかたは、かえって他地域以上に激しかった。
そのうえ村請制の基盤となる村落共同体そのものが、かならずしも安定したものではなかった。関東農村の多くは、多摩郡でもそうであるように、畑作地がほとんどで、農業生産力はひくかった。にもかかわらず、江戸の都市経済の影響力の強い隣接地にあった。貢租負担能力も生活水準もひくく、大都市と農村のいちじるしい不均衡状態のまま、江戸の強力な都市経済の影響下になげだされていたのである。そのうえ畑年貢は貨幣納であったため早くから貨幣収入をもとめねばならなかった。農耕だけで貨幣納年貢も生活もささえきれない農民各層は、早くから江戸の経済力にひかれつつ、村落共同体の外の世界に身体も心も拡散させざるをえなかったわけである。
生産力が高いかわりに高率の年貢を米のまま現物でおさめねばならない水田地帯米どころの村では、村落共同体の強い制約のもとで、多大の労力を投ずる集約農業に精神を集中させられる率は高かったであろう。それに比較してのことではあるが、関東畑作農村では、村落と土地の束縛はゆるみがちであった。村人の精神は、農耕に律義に専念することよりも、少しでも多くの貨幣収入を求める方向にはじめからそそがれていた。同じ貧しさからぬけきれるものではなかったにしろ、村からたえずはなれようとする傾向がきわめて強かったのである。
かれらが目指すところは、江戸であり関東山地麓線沿いの渓口市場町、それらを結ぶ街道筋や河岸場・渡船場などであった。飯能・所沢・新河岸・青梅・五日市・八王子などがそれであり、拝島も小さいながら街道筋・河岸場・渡船場・市場町をかねていたから、人々があつまりやすい場所の一つとなっていた(第三章第一節二参照)。
そこでは純粋な農村には見られないような商売や遊びに熱中する者が多かった。それをまたかせぎの種にするものもあらわれていた。たとえば拝島村では、あとでくわしくのべるように、時期がさがると「碁打渡世」などが成り立つほどであった。広い意味での文化的ないとなみが盛んになっているのである。
また豪農の経済活動や貧農の日銭稼ぎの場は、物・人・銭の動きをあてこんだ博徒や無頼の徒の横行するところとなった。村落共同体の「律義百姓」倫理から遠ざかりつつあった村人たちも、銭稼ぎにふさわしい「市民」的な社会原理や倫理をみいだす段階にいたったわけではなかったから、過渡的で不安定な状態のまま、博徒らのばくち稼ぎの格好の対象とならざるをえなかったのである。こうした状況に、領主警察権の非領国的な稀薄さも手伝って、関東周縁部の治安は乱れがちとなり、世人にもよく知られるような大博徒も輩出するようになっていたのである。このような治安の悪さは、農民の武芸習得熱という一つの文化現象を生みだす一因ともなった。村落秩序の変化における関東特有の激しさは、農民の精神を、武士の専業であるはずの武芸にまで拡散~拡大させていったのである。
このように、農村における一八世紀中頃からの商品生産・流通の発達は、村落秩序の変化と村人の精神拡散現象をよりつよくおしすすめ、それまでの農村には見られないさまざまな文化現象が、急激にあらわれてくる前提をつくっていた。こうした近世後期農村特有の状況下でおきる文化現象を、「在村文化」とよぶのである。
『春山集』にあらわれた昭島をはじめ武州・相州一帯の在村俳人連、『新撰俳諧三十六句僊』の豪農商たち、『江戸愚俗徒然噺』の在村文化の高さ、昭島市域の俳諧・読本から天然理心流の武芸までをふくむさまざまの在村的文化現象、これらのすべては、右のような農村の特質を背景に関東特有の激しさが加わってあらわれたものであった。