B 中下層農民の精神的・文化的動向

1065 ~ 1067 / 1551ページ
 中下層農民は、たえず没落の危機にさらされながらも、一方で新しい商品生産・流通の発達に対応しうる農蚕業の技術をすすんでとり入れようとしていた。たとえば養蚕業では、福島・上田など蚕種名産地の蚕種業者が、蚕種の行商を通じて先進地の養蚕技術を中下層農民につたえる役割をはたした。かれらが蚕卵紙の裏などに書きのこしてくれる養蚕技術をつかって、豪農商の繭買・糸買たちに買い叩かれないような良質の繭・糸をえようと努力がはらわれた。養蚕技術書(蚕書)の出版・流布も見られるようになった。こうした新しい技術や農蚕具の発達も、すべて在村文化の欠かせない一駒であり、村落の外の世界に向けて、村民の精神をひらかせる力ともなっていた。
 女たちは、農耕よりも何らかの形で現金収入に結びつく副業の織物生産の方に、より多くの労力と精神を集中させた。本来ならば村内にとじこもって、農耕だけに専念すべきはずの男たちも早くから日銭稼ぎで村を出入りするようになっていた。街道筋・河岸場や関東山地麓線ぞいの渓口市場町などへ出て、豪農のいとなむ問屋・仲買の商品を運搬する駄賃稼ぎをおこなうのが、もっとも一般であった。昭島では、八王子・五日市へ出て仕事を求めるものがおおかった。日銭を少しでもたくわえられるものは、小規模な商品買付・運搬・販売の小商(こあきな)いに手をだして、少しでも多くの利益をえようとした。いずれもさいごの行先は、江戸であった。
 重い貢租と生活難のため借金などで土地を豪農に手放し、村内での生計の途を完全にうしなったものは、農業をはなれて労賃だけをもらう日傭の仕事、つまり賃労働で日々の生活をおくる都市貧民になっていった。
 こうした中下層農民・都市貧民は、知らずのうちに市場町・街道筋・都市などの低辺で生きるに必要な知恵や人生観を、ギリギリの生活と労働をとおして身につけていった。それらはさらに、商取引・仕事請負・下働きなどの経済行為・契約行為をとおして、しだいにまとまった利害意識にたかめられるばあいも少なくなかった。
 こうした状態のなかで、かれらの精神は、物価や労賃の変動に対してきわめて敏感になり、商人の買占め・売り惜しみなどの情報にもたけていった。凶作や買占めなどによる米穀値段の暴騰などをきっかけに、いつでも特権商人・高利貸をおそう打ちこわしを、おこしかねない存在になっていたのである。多摩郡各地で、強訴・打ちこわしの史料があらわれるようになるのは、近世中期、年号でいえば、ちょうど宝暦から天明・寛政年間(一七五一~一八〇〇)であった。
 こうして中下層農民の行動基準や善悪の判断のしかたは、もはや旧来の村落秩序にも、幕藩・旗本の領主支配にも、また村役人の撫育の下にも、そのままとどまりうるものではなくなっていったのである。
 これら中下層農民の動向は、おおくの場合ただちに直接に文化の姿をとって史料に現われてくる性質のものではなかったが、経済行為そのものとして、あるいは村方出入の形で、さらには「流行神(はやりがみ)」という信仰上の変化という形などで史料にのこり、われわれの眼にふれてくるのである。