C ある下層農民の生き方

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 ここで、第三章(第二節二-D)でもとりあげられていることだが、村方出入にあらわれた一人の農民の生き方を例にあげて、村落秩序のくずれるようすを文化現象としてみてみよう。弘化~嘉永(一八四四~五四)頃、上川原村で村内の問題の的になった運平・みなという夫婦ものがいた。運平は、若いころは「生付(うまれつき)柔和之者」であったが、成人してからは村内の生活にあきたらず「兎角(とかく)農業を嫌ひ、先々遊歩行候もの」になり、「当八九ケ年前(天保末年頃)、出先において女房みなと夫婦罷成、倶々(まかりなりとも/゛\)日雇稼いたし居候」(当、嘉永元(一八四八)年)というような人物であった(みなは上保谷村(現国立市)の生れ)。運平とみなが、日雇稼などをとおしてえた世間的な知恵と生き方からすれば、村へもどってきたとしても「律義百姓」におさまることは、やりきれなかったのであろう。名主のすすめもあって潰百姓の跡をつぎ、田畑持ちの百姓になってからも、「地面所持乍罷在(まかりありながら)、拝嶋村え出稼いたし、剰(あまつさえ)村並役諸役等も一切不相勤」という状態がつづいた。あいかわらず、町場化した拝島で稼ぎをつづけ、年貢諸役も納めない、そのうえ年貢・入用・貯穀・小作料・土地・家屋などこまかいことを一つ一つとりあげて、村役人の理不尽をすぐ訴訟沙汰にする態度をとる。しかも都会で習いおぼえた渡世のしかたであろう「運平は近頃村々碁打渡世にいたし」ている。村々にも運平の相手をして賭碁などに興ずるような、「律義百姓」ならざるものも多かったのだろう。そのためか村内にはほとんど不在であるが、女房もそれをかくして、運平は病気だなどといっている。そのため村で立替えておいた「御年貢・諸夫銭」も一向におさまらない。村役人からみると、こうした運平夫婦の心底、--いわば精神構造~人生哲学--は、とにかく「金子可貪取心底に相違無御座」としか思えなかったのである。
 二人はさいごには、村にいなくなってしまうのだが、これまでお上(かみ)と村役人の権威、村落の伝統・慣習、村民間の馴合い・相互扶助などで保たれてきた村落秩序が、村の外の世界を知りつくし、世間的な知恵で利のあるところを巧みに求めながら、したたかに生きてゆく運平・みなの夫婦に、すっかり乱されている様子がよくうかがわれる。(指田万吉家所蔵文書、嘉永元年十月廿七日「乍恐以書付奉願上候」ほか。)
 運平・みなのような生き方は、都市でも村落でも一個でなりたつものではない。おそらく、みなの生れたという上谷保村でも、運平が出稼ぎや碁打稼ぎの場にしていた拝島村など近隣の村々でも、「律義百姓」ならざる心底の農民が、数多くいたはずである。運平の生き方を否定しようとしている村役人豪農層も、実は運平と共通する「金子可貪取心底」を身につけていたからこそ、日常の致富活動もすすめていられたのである。
 こうした社会秩序・道徳の変りようは、子供の世界にまでひろがっていた。幕府の方も、子供のいたずらていどのことまでも法によって厳しくとりしまろうとするほど、村々の変りようには敏感になっていた。子供の世界も幕府の政治の世界も、ともに大きく変りつつあったのである。関東取締出役が各村の村役人に触れまわし、郷地村にかきとめられていた文によると、つぎのとおりであった。(昭島市郷土研究会発行『郷土研究』一〇)
 さいきんの正月の内、村々で小児どもがよりあつまり、相談して街道筋に泥縄などを引張り、往来の人々を迷惑がらせて銭をねだり、それで飴菓子など買喰をしている。それをいいことにしてだんだん増長し、ねだった銭を元手に賭事にふけるものもでてきた。こうしたことはすべて親の教育がよろしくないからである。右のようなことを絶対しないように、小児どもに厳しく申聞せよ、村役人も精一杯やめさせるようにすべきである。見廻先でまだ右のようなことをしているものがいたら、用捨なく召捕り、厳しい処置をとることにする……。こういう内容である。(丑年、天保十二(一八四一)年か。)
 封建社会の正統な姿にふさわしい村落秩序と精神構造は、豪農・貧農を問わず、都市・農村を問わず、大人・子供を問わず日本全体で大きくくずれながら、在村文化の成長という新しい方向にすすんでいたのである。