経済空間のひろがりは、精神世界のひろがりでもあった。まず豪農たちは、自分たちが村落世界だけにとどまって、封建支配のみに服従しつづけるような、たんなる律義百姓であるとは思わなくなった。むしろ江戸の上層町人と実質的にはかわらない面をそなえているという自己意識をもったのであろう、とりあえずは江戸文化をそのまま模倣してとりいれ、町人と同化する姿勢をもちはじめていたようである。
昭島市域でいえば、大神村で発見された宝暦三(一七五三)年の句集がその例になろう。江戸で刊行されたこの句集は、前頁写真にみられるとおりつぎの九名の俳人の句をのせたものである。(石川善太郎家所蔵。題簽剥落、『巻藁』か)
李井庵存義 須曳庵祇丞 木〓庵樓川 酒銭庵湖十 一口僊再賀 獅子眠鶏口 弌棒庵由林 鐘臥庵清泉 定静庵巽籬
大神町石川善太郎家所蔵,宝暦3年(癸酉)の句集の始めと終り
少なくとも存義から再賀までの五人は、いずれもそのころ「江戸座」とよばれた一派の宗匠たちである。江戸座は、「潤達洒落な享楽気分を中心にした江戸趣味に基づく作風」(『俳諧大辞典』)が特徴で、市域の豪農連はこれらをおそらくそのままうけいれ、まずは江戸町人文化を享楽的に消費する段階に立っていたことになろう。
やがて天明期(一七八一~八九)になると、この俳風がひきがねの役割をはたし、これに反対する革新運動が中央俳壇を中心におこってくる。蕉風(正風、芭蕉の正統風)の復興を旗頭にする派が、いくつも生まれてくるのである。化政期の昭島市域や西武州一帯の在村俳人の創作活動に影響をあたえるのも、この新しい流れにぞくする派がほとんどである。大神村で宝暦期江戸座系の俳書がよまれていたということは、一八世紀中頃の江戸享楽風町人文化の模倣が、一九世紀初頭 化政期に向けての在村文化の成長に、ひきがねの役割をはたしていたことを象徴しているであろう。村々では、やがて江戸町人文化の模倣~消費段階から、革新~創作の実践段階へすすんでゆく。その最初の本格的なあらわれが、はじめに紹介した一八〇八年刊の『春山集』と、これに名をつらねる武州・相州など四〇〇人に近い数の在村俳人、およびそのなかの昭島一三人の顔ぶれだったわけである。