E 村落秩序の変化と在村文化の展開

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 経済空間のひろがりによる町人文化のたんなる模倣~消費段階から、在村文化の実践~創造段階へすすめた要因は、何であったのだろうか。
 商品経済の発達によって封建秩序~村落秩序がくずれつつ、豪農・中下層貧農ともにすでに「律義百姓」ではありえなくなった状況のなかで、都市上層町人--将軍膝下の泰平な世におさまっている都市御用町人--とはことなる精神的な課題が、少くとも二つ豪農たちに課せられることになった。
 第一は、村落の新しい経済的社会的情勢と中下層貧農の動向にあるていど対応できる、一つの新しい百姓像を手さぐりしつつ求めてゆくことである。第二は、小村落をこえた致富活動の足場である地域経済圏のあらたな秩序をたもてるような、豪農同志の結びつきをつくりだしてゆくことである。
 いずれもはじめは、意識的であれ無意識的であれ封建秩序の範囲内で意図されてはいる。しかし幕末にいたり、外国の経済上・軍事上の圧力や、これをきっかけとする幕府政治の動揺、朝廷・諸藩と幕府との軋轢などにより、幕藩制社会の解体が目にみえてくると、その範囲内をみずからこえて世の変革を期待する方向にもむくようになるものである。
 第一点百姓像については、多摩~昭島市域の豪農たちは、おもに心学・国学・武術習練・農蚕業技術・易学などにこれを求めていったようである。
 寛政二(一七九〇)年一〇月五日拝島村を、江戸の著名な心学者中沢道二がおとずれている。心学は、京の町人石田梅岩の説いた、一種の生活哲学である。儒教の立場で人の本性をかえりみ、とくに商人が封建秩序のなかで与えられた職分を人として誠実に守るならば、えられた利益は道徳にかなった正しいもの(それまでは利は賤しいものと否定されていた)であり、そのためにたえず内省と修養をつむべきだ、という考えであった。やがて幕藩制の支配秩序に従順であるべきことが強調されつつ、講舎が各地につくられ、心学者の巡回講演(「道話」)によって教えはひろめられていった。中沢道二は江戸の講舎活動の中心人物で、この年一〇月一日から四日まで八王子の横山宿で道話をおこなったあと、拝島へもやってきたものである。こののち寛政五年にも八王子を再訪、八年には「先行舎」という講舎もつくられ、宿場名主らによって維持されつつ入門者は六〇〇人におよんだと伝えられている。(『八王子市史』上、二八〇頁)
 その後市域の村々でも、心学の影響はあるていどつづいていたらしく、大神村には、中村嘉右衛門が入手した『鳩翁道話』正編・続編・続々編全一八冊(天保年間(一八三〇~四四)刊)がのこされている(中村保夫家)。しかし、主観的な内省と修養による封建道徳の順守という面だけでは、急変しつつある村落情勢のなかの生き方として物足らなかったにちがいない。八王子を中心とする多摩地方の心学も、文政年間(一八一八~三〇)までで下火になっていたらしい(『八王子市史』上』。

中村保夫家所蔵『鳩翁道話』

 国学は、たとえば田中村の矢島定右衛門が、江戸の清水浜臣(はまおみ)の門下に入って学んでいることなどがその例である。浜臣は、国学者のなかでも村田春海の系統にぞくする。古典研究~鑑賞を重視する派で、のちになっても政治思想としての実践的な面の強い平田篤胤の系統とは一線を画するものである。しかし、和歌の道そのもののなかに、あるべき理想の道徳を求めようとした考えは、村落の外により普遍的な価値基準をもとめようとする豪農にとって、一つの重要な精神のみちびきとなったはずである。定右衛門は、府中大国魂神社神官を中心とする多摩地方の和歌グループ「樅(しょう)園門」に入り、一門の歌集『類題新竹集』にも歌を採録され、同門の平田派門人やのちに尊王攘夷運動に加わるものたちとも、あるていどの交際をもっていたらしい。(史料編第十二章一八〇)
 豪農たちの求めた人間像をもっとはっきり示しているものが、武術習練である。とくに文化年間(一八〇四~一八)に多摩地方にひろまりだした「天然理心流」の剣術・棒術である。はじめは千人同心にぞくする多摩の郷士にさかんであったが、天保一〇年代(一〇年は一八三九年)に急速に村々の豪農にひろまったものである。のちにのべるとおり(第四節二参照)市域村々からも二〇名以上の豪農の、おもに跡取りたち子弟の名前を門人帳にみることができる(史料編第十二章一九〇)。また拝島村の大沢勝右衛門のように、関東一円の道場持ちクラスの武芸達者をおさめた『武術英名録』(万延元(一八六〇)年刊)に名をのこしているものもいた。
 武芸習得に、豪農とその跡取りたちがもとめていたものは、みずからが武力をあわせもつことによって、どのような村落秩序の変動にも独自に対処しうる自警的な力--一種の政治力--をもった豪農像であろう。武芸を身につけることは、武士~郷士の姿に似せてゆくという点で、伝統的な封建秩序により深く馴化してゆく面がないわけではない。しかし、武士階級だけに社会秩序の維持を盲目的にまかせて頼りきることがもはやできず、豪農自身が武装して一種の政治力をもつ方向へ歩きだしている点は重要である。その中からやがて尊攘運動家や新選組の中心人物たちも輩出する。それらをも含む豪農連の政治志向は、すでに天保一〇年代早くからはたらいていたことになる。のちに公武合体と幕権の集中化をもとめた文久期幕政改革(文久年間は一八六一~六四)の一環として多摩郡をはじめ江川代官所の支配地に組織された「農兵」の制も、こうした豪農のうごきを、おそまきながら上から収攬しようとしたものであろう。
 豪農の精神は、いまだ封建秩序の枠内を、完全にぬけきるところまではいたらなかったが、そのなかに安泰にくみこまれるべき正統な律義百姓像からは明らかに遠ざかりつつ、あらたな時代にふさわしい豪農像をもとめていたのである。