豪農の求めたもう一つの姿は、合理的な農蚕業技術をもって生産にたちむかう力作型の生産者像であった。手工業の技術も、先進地のもっとも進んだ技術をとりいれようとした。大神村中村嘉右衛門が、文政期「私財ヲ投ジテ之レヲ上州桐生ニ探リ筑前本場ニ糺(ただ)シ熟慮考察」して博多織を学び、八王子市場で「嘉右衛門織り」の名声をえるようになったのもそうである。その孫中村半左衛門が明治初期に「夙(つと)ニ志ヲ養蚕ノ改良ニ傾ケ、未タ壮年ナルニ一意蹶起(けつき)シテ各地ヲ巡歴シ」ながら研究し「遂ニ佳良ノ養法ヲ自得シ、率先試育シ之レヲ衆人ニ伝ヘ改良ノ方針ヲ示シ、或ハ養蚕具ヲ創製」したのも、力作型豪農の一典型であった。(明治二五年「実業精励者具申」中村保夫家所蔵。史料編九一参照)
もちろん豪農のすべてが、力作型の方向を求めていたとはいえない。利貸に重点をおいて寄生地主化してゆく方向もけっして小さくはなかったが、低生産力が特徴のここ関東西端の畑作農村では、後者の途はかならずしも順調ではなかったとみるべきであろう。(第三章第三節一、参照)
こうして新しい人間像を求める姿勢も、心学・国学・武術・農工業技術など個別の文化現象のなかに、それぞれなりに見出すことはできる。しかし客観的に法則的に体系立てられた一貫した哲学~政治思想~世界観には、いまだ一歩距離をへだてていた。致富活動・文化活動も、対領主・対貧農の諸関係も、いずれもまだ偶然に左右される面が強く不安定であった。そこでとくに社会不安の深まる幕末の人々は--なかでも非力作型利貸・仲買中心の地主・商業資本的性格の強い豪農は--物事の最終的な判断を易学にゆだねる姿勢をつよくもつようになった。たとえば中神村の中野久次郎がそうである。この地域最大級の地主であり、八王子の在方縞買の総代の地位にあってその富豪ぶりをうたわれてはいたが、その人生哲学の底では、天保期からはやる人相学「陶宮術」(または淘宮術)に傾倒していた。人相・骨相という偶然的な要素にすべての判断のもとをおいていたらしい。
陶宮術は、たとえば青梅の薬商で俳諧宗匠の横川臼左もそうであったように、いまだ新しい世界観をみいだしえない近世終末期の在村文化人を、かなりつよくとらえていたものと思われる。しかし、同じ易学といっても陶宮術のばあい人相にあらわれる先天的な宿命を、心のおきどころでかえることができるという考えが中心になっている。宿命をかえられる、という点で積極的な意味をもつと同時に、それが、心のおき方という、外部世界には働きかけることをしない方法によっているという点で限界をもっている。近世終末期という過渡的な時期にみあう内容であった、というべきであろう。