A 在村俳人の出現と『春山集』

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 第一節冒頭でのべたように、市域の在村俳人の俳号や作品が、もっとも早くあらわれるのは、文化八(一八一一)年の『春山集』という句集である。これは八王子の著名な女流俳人榎本星布尼の八〇歳記念句集で、多摩郡を中心に、西武・北相・東部甲州におよぶ広い範囲の村々の俳人から句をつのり、四〇〇余句を掲載出版したものである。
 昭島からは、先述のとおり、拝島村九名、田中村二名、上川原村一名、郷地村一名計十三名の俳号が記載されている。
 俳号とその作品を記載順に紹介してみよう。
  田中村  吉従  文思
  拝島村  聞之  梧眠  枝鳩  無角  如水  文秋  態飛  英   竹子
  上川原村 里耕
  郷地村  宇多ゝ
    (前半、一人ずつ)
  就中(なかんずく)松さかむなりはるの山 田中  吉従
  もゝとせもけふをはしめや八十の春    拝島  聞之
  もゝの坂こえんもやすし春の山      上河原 里耕
  もゝとせの菊にもまさる齢(よわい)かな 田中  文思
  誹諧歌仙  (連歌形式の一連のもののなかに※印の市域俳人が混っている。)
  八十の坂越てもおなし春の山           星布
  みとりふく世の松はめてたき           成章
  初烏賊のとれさかりたる浦はれて         其水
  きり火をちらすあそひする也          ※吉従
            (中略)
  しのふ身を夏痩と人にうたはれし        ※宇多ゝ
  曲突(くど)たくけふりおもひつたなき      五明
            (後略)
      (以下、単独の発句)
  春の山かそへもはてぬ九十九折      郷地  宇多ゝ
  さく花も世にちる花も人のうへ      拝島  梧眠
  あしひきの山や霞のうらおもて          枝鳩
  鳥雲に入てわかるゝ里子かな       無角
  白浜や道おほよそに朧(おぼろ)月        如水
  雨の螢草三寸をちからかな            文秋
  長閑さやけふり直(すぐ)なる浅間山       能飛
  時鳥(ほととぎす)啼や夜風のうす月夜      英
  白浜に鶴のあゆみやけさの春           竹子
  陀袋の蛙に春の声もがな         田中  吉従

『春山集』と昭島の俳人

 あとがきの部分にあたる文章中にも、田中村の「吉従」の名が記されている。『春山集』出版にあたってとくに重要な役割をはたしていたらしい。あとがきには、一つの権威付けのような形で、当代の国学者・歌人の一人「泊〓舎(さざなみのや)清水浜臣」(村田春海門下、医家出身の江戸の人、一七七六~一八二四)を頼んでいる。「春山」という名称についての由来と賛辞を記しながら、そのなかで矢島吉従についてつぎのようにのべている。
  矢嶋吉従は、おのがもとにをもくは物して、よろづのまなび(学)とひき(問聴)けば、吉従がこ(乞)ふまゝに、春山の名のよくあるよしを、かいつけ(書付)させたる也(中略)
       さゝなみの屋のあるじ
 星布尼とは直接の知己ではなく、俳諧とことなる和歌の道にある者だが、矢嶋吉従が自分のところに物を学び問いにくる間柄であるため、吉従に乞われるままに春山という名称によせて賛辞のあとがきを記した、という意味である。吉従が『春山集』の編集上重要な役割をはたしていたこと、江戸の国学者・歌人とも師弟の交りをもっていたこと、などがわかる。