第一節で見たように、新しい村落情勢にのった在村文化展開の動向のなかで、市域村々をふくむ多摩郡~西武州におびただしい数の在村俳人とその組織が生まれつつあった。経済圏~文化圏の中心である八王子以外でも、句集の募集・発行や「奉額句合」を企画するような在村俳人(星布尼らを地方宗匠とよぶとすれば、村単位の小地域の指導者格として地域宗匠とでもいうべきか)が、各地にあらわれていた。
また江戸の宗匠(中央宗匠とでもよぶか)の募る「月並句会」に参加するものもきわめて多く、地方での活動を独立して行いつつも、江戸文化の吸引力の影響下にもおかれていた。巨視的にとらえてみると、江戸を中心にした関東文化圏、そのなかでの八王子を中心にした多摩~西武州文化圏、さらにその下にある村々の地域小文化圏が重なりながら、在村文化の成長の場を形成していたもの、と見ることができる。(文化圏の諸相については、第四項に詳述)
こうした一九世紀初頭の在村文化の成長期にあって、昭島市域の村々では『春山集』以降明治に入る直前までの約六〇年間に、少くとも一二〇人以上の在村俳人が活躍していた。それらの俳号と作品を、ほぼ時代順に紹介してみよう。
まず、江戸の中央俳壇の宗匠が主催する「月並句合」では、文政年間「其墨庵」・「宝雪庵」・「太白堂」などによく投稿していた。
前二者は、これまでの俳諧史研究の分野では、ほとんど何も明らかにされていない人物らしい。しかし少なくとも多摩の在村俳人にとっては、かなり重要な宗匠であったと思われる。「太白堂」は、文政四(一八二一)年、一橋家の家臣出身の孤月が六世を嗣いだころから、江戸の有力な宗匠の一人にかぞえられるようになり、渡辺崋山とも親交をもって、その句集を崋山の挿絵でかざっていたりしていた。武州・相州の在村俳人の間でも人気が高く、江戸を中心に全国に門人三六二八人を擁する、といわれていた(相見春雨「崋山と太白堂」、美術協会雑誌昭和十二年号二三頁)。昭島市域にも、太白堂の「月並句合」の刷物がいくつものこされている。
つぎに奉額句合では、おもに多摩郡の各社寺に奉額することがきわめてさかんであった。現物の額は、ほとんどのこされていないが、奉額記念の刷物が保存されていることによって、市域在村俳人の活躍のようすを知ることができる。
今までにあつめえたものだけをあげてみると、武州小丹波熊野宮・武州拝島山王宮両大師両所・武州大勝山観音堂・高尾山・伊奈岩走神社・横沢大悲願寺・引田四天王・山田天満宮・立川諏訪宮など、市域から多摩郡一帯にひろがる地域におよんでいる。いずれも広い範囲から信仰をえている寺社であろうが、市域のなかでは、「山王宮奉灯秋乱題句合」のように、その村の村社への奉灯を、上川原村内の「指月・友枝」という二人が催主となって村の内外から句を募って行う例もある。(史料編第十二章一七六。社頭手水鉢屋根下などに行灯(あんどん)形の額灯に句を記して奉ずるもの。)