C 江戸宗匠の月並句合への参加

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 まず江戸宗匠への月並投稿のようすを年代順におって見てみよう。現在わかっているもっとも早いものは、文政六(一八二三)年『太白堂孤月評 月次(つきなみ)混題句合 五点以上癸未六月分』(早稲田大学図書館蔵)で、そのなかに一人、「武郷地 烏葎」が載っている。
  六                   ゝ(武)郷地
  花に寐(ね)しふりや紙帳のうす明り         烏葎
 
 文政一〇(一八二七)年には、市域俳人がまとまって投稿し、採録されている。『其墨庵芳随評 月並句合 亥六月分』・『同 閏(うるう)六月分』、同年『宝雪庵蘭山評 月並句合 亥七月分』(大神町中村保夫家所蔵)によると、投稿の受付順に秀句を掲載した部分に、拝島・田中・上川原・大神・福島・郷地村から十二~十四名の俳号が一連になって見出される。おそらく、日常的に俳諧仲間の会合や交流がもたれていて、毎月仲間の作品をひとまとめにして江戸宗匠へ投稿していたものであろう。(もしその頃、昭島という地域名があったとすれば、「昭島連」とでも呼ばれたであろう俳諧グループが、すでにできあがっていたものと考えられる。)これ以後、少くとも俳諧にかんするかぎり、拝島から郷地までの現在の市域にあたる村々は、文化的にほぼ一つのつながりをもったものとしてあらわれてくる。これに西隣では福生・熊川、東隣では柴崎(立川)の加わった範囲が、最も日常的で最小の、いわば地域小文化圏をなしていたものと考えられる。のこされている句と俳号はつぎのようである。
(一)  『基墨庵芳随評 月並句合 亥六月分』
        佳境之部至来順
  菅笠の上を投(なげ)こす早苗かな      ハイシマ 耳月
  鵜遣(うつか)ひが門としられし匂ひかな   ゝ    蘭二
  月落て卯の花垣のあかりかな         田中   柳枝
  涼しさや脊(せど)の滝音聞てゐる      上川原  里耕
  葉さくらや草に埋(うもれ)し捨竈(かまど) ゝ    古友
  水鶏(くいな)啼や秋ぞとおもふ霜の月    フクシマ 自楽
  向合ふて啼けばくれけり枝蛙(かわず)    ゝ    喜月
  青鷺や水田のうへの朝ぼらけ         ゝ    仙女
  水鉢になてしこの影うつりけり        ゝ    宝旭
  昼顔に梓か垣根かくれけり          砂月改ゝ 其丈
  葉柳や一かたまりに風の音          ゝ    其友
  馬(ま)たらいに影うつりけり夏の菊     ゝ    風蝶
 右の一二名一二句は、この六月の秀句のなかでは、三人目から一四人目までつづけて掲載されている。日常の俳諧を通じての交流をもって、グループ投稿をしていた仲間であろう。秀句全一六三句のうちの最優秀三句につづく「番外」の入選者一〇名のなかに、拝島の耳月が一人えらばれている。他は佳作入選者というところであろう。なお肩書に村名がつけられていないが、他の史料からみて明らかに市域の俳人と断定できるものに、次のようなものが、同じく一連で掲載されている。
  千畳をかそへ尽して堂すゞし         (拝島) 種月
  夕顔や小寺の庭の破れ垣           (ゝ)  岡月
  八百里草のゆるかぬあつさかな        (大神) 中子
  夕顔やとなりに馬を洗ふ音          (田中) 糸楽
  夕顔やひさごの花もおもわれす        (上川原)寿松
  御秡して心涼しく成りにけり         (ゝ)  規隆
  浮島のうごくやうなり夏の月         (福島) 其柳
  みちか夜を花のあらしとおもひけり      (?)  其山
  物いへば口に蚊の入るわら屋かな       (郷地) 還生
 これは前半掲載分の仲間に間にあわず、おくれていっしょに投稿した仲間の分であろうか。
(二)  『其墨庵芳随評 月次句合 亥閏(うるう)六月分』
  月の〓(とばり)外に世界はなかりけり    (拝島) 耳月
  掾先を流るゝ水や夏の月                仝
  杖なぞも捨(すて)ても有るや草清水          菊二
  夕立や渡りかねたるあすか川         ハイシマ 如水
  川風をたゝんて歩行(あるく)海のはた    フクシマ 自楽
  鶯も啼けは聞たし今年竹                仝
  蓮咲て遠き灯(ともし)の移りけり           美江
  どちらへも動かぬ水や蓮の花              月路
  百合の花たしかな家も見へぬなり            仝
  白扇上手に馬も乗られけり          (拝島) 宝川
  矢羽(やば)ひたす水の泡立暑かな           仝
  昼顔やきうくつらしき辻仏          武郷地  還生
  蟹の背にひたり/\と清水かな             雅月
  若竹に風のなき日をかそへけり        フクシマ 喜月
  門に入る間を腰にさす扇かな         ゝ    其丈
  田植唄暁かけて聞へけり           ゝ    其雪
 (この句合の末尾欄外には、月毎の締切をこれまで「十日限り」にしていたが、投稿がとかく遅れがちになるので「十七日限り」に改め、それにも遅れた分は翌月廻しにする、という宗匠側からのお知らせがのせられている。通信の不便さもさりながら、締切をすぎても続々と句がよせられてくる盛んな様子を示しているものであろうか。)
(三)  『宝雪庵蘭山評 月並句合 亥七月分』
  朝かほの露あたらしくこほれけり       ハイシマ 耳月
  すゝしさやともし灯更(ふけ)る浜やしき   ゝ    種月
  秋近くみゆれ露もつ麻の花          ゝ    如水
  輸踊りの中に目にたつ法師かな        ゝ    蘭二
  いなつまに斧うつ鍛治の拍子かな       田中   糸楽
  苔の花さくやそこらに座禅石              ゝ
  かね言の夜は更やすき水鶏かな        大カミ  中子
  あさ風やさくらの花は水に浮く        フクシマ 宝旭
  萩手折り行(ゆく)やゆさ/\檜(ひのき)笠 ゝ    自楽
  寝こゝろの落着く夜也むしのこへ(声)    ゝ    其友
  足先へ浪うちよせるおどりかな        芦舟改ゝ 一志
  更(ふけ)行や月のきぬたの乱れうち     ゝ    月峰
  秋風や日に/\下ることし魚         ゝ    美江
  沓音の不断聞ゝつゝ萩の庭          ゝ    其柳
  おく露や野はこゝろよき朝ほらけ       ゝ    其丈
    (六印之部)
  花火見の月ともいはで戻りけり        ハイシマ 宝川
  花稲の上に定る月日かな           フクシマ 喜川
 右のような文政年間の江戸月並句会への投稿には、一つの特徴がみられる。とくに『其墨庵芳随評月並句合』のばあいにいちじるしい。それは昭島連以外の投稿者に、江戸の牛込・番町・大久保辺の在住者が、圧倒的に多いことである。それらの町名と俳号を、一致する分だけだが掲載順にあげてみよう。
  牛込  五勇    二番町 一鶏    矢来町 瓢鯰
  番町  柏雄    矢来町 浮水    牛込  古十
  矢来町 卯角     ゝ  かつミ   山伏町 其竹
  大久保 澄江    矢来町 暁烏    大久保 和水
  矢来町 巴水     ゝ  扇風    番町  沙月
  四番町 蔵山    小日向 六兎丸   小石川 和光
  番町  辺     小石川 克明    大久保 亀遊
  番町  熊蟻    矢来町 竹渓     ゝ  暁雨
  矢来町 如柳    番町  如冠    大久保 澄江女
  矢来町 赤山    大久保 冬隣    小石川 和月
  矢来町 巴山     ゝ  宝谷
                            (なお矢来町の赤山は、この月並句合の催主(さいしゅ)・編輯者である。)
 右の地域は、旗本屋敷の集中しているところである。これ以外の投稿者は、武州の「菅生 苔里」・「玉川 其蓮」などの在村俳人か、駿府・尾張などの遠隔地のものなどの九名(両月で延一〇名)ほどにすぎない。したがって(地名を記さない俳号がほかにもあるが)これら月並句合の投稿者のかなりおおくが、江戸旗本屋敷地域在住者(延三五名)と昭島市域在村俳人(延二一名)によって占められていたことになる。
 ここで推測されることは、市域を支配する旗本の存在が、これらの投稿に何かのかかわりをもっていたのではなかろうか、ということである。しかし撰者・催主・投稿者いずれも俳諧史の一隅にでものこるような著名な俳人ではなかったらしく、今のところ俳号からその実在人物名や身分を知ることができない。ただ、市域村々を支配する旗本の多くが、このあたりに屋敷をもっており、市域の豪農は、年貢納入事務や御用金・賄金などの用事で出向くことが多く、近くに定宿としていたところもあったらしいから(中神村中野久次郎『諸用日記控』)、昭島俳人連は、江戸の他地域にくらべれば、ここの俳諧愛好者や宗匠たち(いわば牛込連とでもよべるか)と接触する機会をもちやすかったのかもしれない。媒介の役割をはたしたのは、旗本屋敷の関係者であるよりも、定宿の主人など町人であった可能性が高いだろう。確実なことは後の研究・調査にまちたいと思う。
 さて、天保期(一八三〇~一八四四)になると、江戸の宗匠の月並句合の投稿先として、「太白堂孤月」の名が目立ってくるようになった。同じころから、多摩郡各地の奉額句合の判者にも孤月の名が多く見られるようになっている。(以下、原文にないふりがなの( )は省略)
(四) 『太白堂孤月評 月次混題句合 五点以上 癸卯九月分』(天保一四(一八四三)年、多摩郡の村々をふくむ全国から投稿された秀句約四五〇が掲載。中村保夫家所蔵。)
  傘(からかさ)に落て重たし桐一葉   大カミ  当巾
  桐ふはり/\と二度に二葉かな     ハイシマ 月桂
  舟を乗替れはさめる新酒かな      タナカ  保菊
      (いずれも五点)
(五) 『太白堂孤月評 月次混題句合 五点以上 癸卯閏(うるう)九月分』(天保一四年)
  枝の蝶花から花へ休みけり       大カミ  樵路
  霧くさし峠をこえて来た手紙      田ナカ  保菊
  桐一葉雀したたか雨去ぬ             ゝ
  見直せば雲となりけり秋の山      ゝ    梅林
     (いずれも五点)
(六) 『太白堂孤月評 月次混題句合 五点以上 甲辰二月分』(弘化元年(一八四四)か)
  はるの山越ながら見(みる)いかだかな 武タナカ 梅林
  どの枝も折口のある野梅かな      ゝ    保菊
  花に来た鷺の汚れてみえにけり          ゝ
    (いずれも五点)
 これ以後、江戸の宗匠クラスの主催する「月並句合」の史料として、太白堂孤月のものがひきつづいて市域で発見されてはいるが(中村保夫家所蔵)、市域で秀句を掲載される者はほとんどいなくなり、かわって近隣の村々の俳人たちと交流しあう「句合」が目立っておおくなってくる。時々は投稿をして小冊子をとりよせるていどの関心を江戸の「月並」にはよせてはいるものの、もっぱらの活動は、近隣俳人連の地域小文化圏のなかにそそがれるようになったものと推定できようか。江戸文化にたいする受容~模倣~参加の段階をへながら、一定の自立の姿勢をもあわせもつような段階にいたったのであろう。
 そのような一つの転換期のもので、宗匠クラスの月並に市域俳人連がまとまって投稿・掲載されたおそらくさいごではないかと考えられる句合を見てみよう。『耕園居月並 申』(青梅市青木正州氏所蔵)(史料の綴じこみ順からみて、申は、嘉永元年戊申(一八四八年)と推定できる)の三月・四月・八月分である。
(七) 『耕園居月並』
    申三月分
  濡(ぬれ)たのを自慢にしたり花の雨  フクシマ 鼻毛
  何事ぞ此雨の日をかえる雁       中カミ  玉露
  二三丁夜にして戻る汐干かな      タナカ  梅林
  留守居迄添(そえ)て花見の手紙かな  上川原  里耕
  美しき鳥のかげさすももの花      フクシマ 酒楽
  雨雲の風になる日や雉子の声      上川ハラ とき女
  手造りの酒うる家や桃の花       ゝ    里耕
 (里耕は十三点をえて天地人上位三人の第二位「地」の位をえている。)
(八)   同申四月分
  短夜の風も吹ずに仕舞けり       上川原  とき女
  若艸(くさ)や露けく見ゆる竹の影   大神   季翠
  行(ゆく)春や水に戻りし諏訪の湖(うみ)    ゝ
  靄(もや)きれて見おろす岩や苔の花  中カミ  玉露
  出(だし)たらぬ手紙の文字や初鰹   上川原  里耕
  月もなく暦もなくて閑子鳥       ゝ    規隆
  日もすから月にかゝりて田植かな    中カミ  如風
                         (如風は天地人上位三位に次ぎ番外五人の四人目に入選している。)
(九)   同 八月分
  秋草や踏れながらに実を結ぶ      大カミ  季翠
  名月や窓へ吹こむ波しぶき       中カミ  文調
  温泉(ゆ)の薫り未だ抜きらぬ袷かな       文調
  奥山へ引(ひく)や夜明の鹿の声    オカミ  栄稀
  色付ば人の見に出るもみじかな          ゝ
  うたゝ寝の覚(さめ)て秋知る夜半かな 上川原  里耕
  くだり来て遠眼程よし山紅葉           栄稀
  黄昏に音して浮や稲の露             ゝ
  今来たといわんばかりや雁の声          文調
  地に届く迄をかぎりや長瓢            ゝ
  舜(あさがお)や垣にあまりて屋根伝ひ ハイシマ 種月
  葛餅や真先かけて雁わたる       大カミ  季翠
                            (最後の二句の種月・季翠は「十印之部」に入選している。)

『耕園居月並』と昭島の俳人


『耕園居月並』(青梅市青木正州氏所蔵)