D 村々での句会の開催-在村俳人の自立化傾向-

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 前述のとおりこれまで発見された史料だけでみると、一八四〇年代後半以降、江戸の宗匠の月並句合に掲載されるものは見当らなくなる。かわって、多摩文化圏の相対的な自立を示すかのように、市域俳人の主催する句合や、多摩郡各地の寺社の奉額句合に、多くの俳号が見出されるようになってくる。
 その先駆に、文政一一(一八二八)年市域俳人が催主となって募集・発行した句合『十評発句合 都岐鳥(ほととぎす)』がある。上川原村「友子・俊子・規隆」の三名が催主となり、多摩郡を中心に句を募り、秀句約一三〇句(市域から八ケ村、市域外二二ケ村分)を掲載して発行したものである。(指田十次家所蔵。友子は指田氏の俳号と考えられる。)「十評発句合」とは、十人の評者が秀句をえらび、数多い評者からえらばれた句ほど高点とする仕組の句合である。たとえば五人の評者が季句とした句は「五評通点」とする。最高は「九評通点」から「十評通点」(十評はめったにあることではないが)ということになる。
 十人の評者には、「軽雪庵」と「乎也堂」という、おそらくは江戸の、宗匠クラスと思われる俳人が名をつらねているほか、在村俳人のなかからも、次のようなものが評者に加わっている。
(投稿者と評者をかねるものは※印)
  松亭素月※  (小比企村、現八王子市)
  不老軒うたゝ※(郷地村)
  漢川堂鴉巣  (未詳)
  春竹園布川  (八王子宿)
  〓江亭朗月  (立川村)
  松翠亭其徳※ (宮下村、現八王子市)
  渾亭笑山※  (中河原村、現府中市)
  玉斧亭甘月※ (拝島村)
 これらの俳人は、それぞれのいわば地域小文化圏の指導的立場にたちうる小地域宗匠で、催主友子らとふだんの親交があった者であろう。とくに不老軒うたゝは、別項でもとりあげるように、『露草双紙』という読本(よみほん)(滝沢馬琴を代表的な著者とするような勧善懲悪を主題とするこの時期の小説の一種)を著わしているほか、同時期の『春五題句合サイシ亀水』(年月不詳。指田十次家所蔵)などにも判者として、「宇多ゝ(うたた)大先生公 玉机下」という宛書に名をのこしている。文政年間の市域では、宗匠クラスとしてはいちばんの指導的な立場にあった。
 また『都岐鳥』に投稿したなかに石川村(現八王子市石川)の「漣艸」という俳号をもつ物がいる。これも『銘々評  中神連中』(年不詳。指田十次家所蔵)という中神村の在村俳人を中心とした発句合の判者として、表紙に「漣艸雅君 玉机下」と宛書されて名をのこしている。
 いずれにせよ、多摩郡の市域周辺の村々では、あるときは投稿者になり、あるときは評者・判者となりうるような有力な在村俳人が、おそらくは小地域の核となって、日常的な文化交流を行なっていたものと思われる。『都岐鳥』の発行は、そうした地域宗匠クラスの在村俳人数名を動員し、周辺三〇ケ村から多くの句をつのっておこなわれたのである。友子・俊子・規隆らの活躍していた上川原村は、多摩文化圏の、小さいながらも欠かせぬ一角をなしていたことになろう。

『十評発句合都岐鳥』

 市域在村俳人たちの秀句、および催主・評者の句は、つぎのようである。
(一) 『十評発句合  都岐鳥』
       (五点以上 六評通)
  ほとゝぎす啼や真空(まそら)に松魚(かつお)雲   上川原  三好
  夏の月涼ミなくして仕舞けり             フクシマ 月峰
       (仝 五評通)
  夏は夜と月に立けり歩行けり          カフチ(郷地) うたゝ
  笛の音は麓の茶屋か夏の月              上カハラ 里耕
  水売の市に残りし夏の月               中カミ  孟〓
  蚊屋(かや)を這ふ子は機嫌なり夏の月        大カミ  南豊
  鄙(ひな)ふりや夏の月夜のしき莚(むしろ)     ゝ    成富
  水打(うて)ば庭にかげあり夏の月          上カハラ 孤六
      (仝 四評通)
  むら雨の魁(さきがけ)したりほととぎす       ハイシマ 蘭二
  玉味噌の鼻に附夜やほとゝぎす            ゝ    甘月
  竹の葉に辷(すべ)るやうなり夏の月         フクシマ 喜月
  蘇生(いき)かえるこゝちぞ夏の月夜かな       上カハラ 寿松
  やれおきよはつ郭公(ほととぎす)/\        ゝ    俊子
  傘さして雨にぬれけりほととぎす           田中   柳枝
      (仝 三評通)
  国またぐ日の出の虹やほととぎす           カフチ  園生
  住捨し山里床しほとゝぎす              (拝島) 如水
  谷間(たにあい)の水汲(くむ)人やほととぎす    田中   糸楽
  田戻りの馬嘶(いななく)やなつの月         上カハラ 規隆
  郭公(ほととぎす)なく/\月を雨にして       五ノ   月峰
      (仝 二評通)
  時鳥啼/\(ほとゝぎすなく/\)渡る虹のはし    上川ラ  古友
  足引の山またやまにほとゝぎす            中カミ  如風
  月入て松風ばかりほとゝぎす             カフチ  鶯林
  一とひらの雲や雨なす沓代鳥(ほととぎす)           うたゝ
  陽雀(あげひばり)啼へらしたか廿日月             里耕
  舟で行(ゆく)旅こそよけれ夏の月               蘭二
  茶所も明てありけりなつの月             ハイシマ 熊飛
  詠(ながめ)ばや玉江にやどす夏の月         ゝ    如水
  うかされし茶をばうらみず時鳥(ほととぎす)     ゝ    種月
  門々に人の声あり夏の月                    友子
  一ト(ひと)夜さの通夜だにうき(憂)に時鳥          柳枝
  ほとときす啼や跡から明がらす            ハイシマ 青車
      (一評高印)
  ゝ(乎)子規(ほととぎす)まだ北晨は未申(ひつじさる) 上カハラ 友桂
  ゝ君守護の夜毎を啼よ郭公(ほととぎす)            熊飛
  ゝ(朗)時鳥一声は雲の施間(はざま)かな      ハイシマ 和角
  甘
   礫打(つぶて)水おもしろし夏の月         フクシマ 其丈
  ゝほとゝきす書そこねたる墨のちり          ミヤサハ 文思
  ゝ(笑)一ト(ひと)仕事しては出て見る夏の月    フクシマ 自楽
  ゝ(其)君が代そ蚊屋を吹れて夏の月         上川ラ  菅竹
      ○(催主)
  小夜更て音の定る一葉かな            サイ(催)主 友子
  朝かぜや秋をしれとて柳ちる              ゝ   俊子
  朝寒や殊更白きふしの峰                ゝ   規隆
      ○(評者)
  苔清水何処へ流れて米ならす              不老軒 うたゝ
  草に露もてば崩るゝ雲の峰               玉斧庵 甘月
      (文政十一子八月)
 「十評発句合」は、ふつうえらんだ評者の少いものから並べ、しだいに五評・六評と高点におよび、さいごに、催主と評者の句をあげる形をとる。ここでは、各評者五点以上をつけた句が、「六評通」を最高に高い順から並べられているようだ。十評はめったに出ないが、応募者の質が高いほど、七評・八評・九評の高点が出ることが多い。この『都岐鳥』は、いかにも在村俳人の「十評発句合」らしく高点が少ない。
 
(二) 『秋乱題角力句合 再考之部』          (中神町福厳寺所蔵)
        (文政一二(一八二九)年か)
  田喜庵評(略)
  太白堂評(略)
  桂斎評
  蜻蛉(かげろう)の羽にのせて来る日和かな カフチ  還生
  まよひ子を呼さへあるにあきの雨      上カハラ 里耕
  夜のすゝきこゝろの先をうごきけり     フクシマ 月峰
  寝る程はたゝみもあるよ虫の声       石カハ  漣艸
  子をくれて夜は眠られずむしの声      ハイシマ 和角
  不老軒評
  ともし火のはねてもかわる秋の空           還生
  玉斧軒評
  あさ顔や藪に残りし廿日月         上川原  友子
     ○
  真□寺の賽銭ふへる紅葉哉         サイ主  梅里
     ○
  菊咲(評者)やこゝろ爰(ここ)らが置所  不老軒  うたゝ
  土蔵よりうしろに菊の畑かな        玉斧庵  甘月
 催主「梅里」は中神村。評者のうち江戸宗匠格の田喜庵・太白堂をのぞいた三名は、いずれも在村俳人の小地域の宗匠格。「不老軒」は前のとうり郷地村のうたゝ、「玉斧庵甘月」は拝島村、ともに市域村々での指導的な俳人である。この句合は、主催者・評者ともに市域俳人のものとして、『都岐鳥』などとともに貴重である。「催主梅里」の中神村からの募集に応じた村々は左のとうりである。
 多摩郡 滝山・小比企・宇津木・石川・八王子(以上八王子市)。石原(調布市)。小川(秋川市か)。府中。立川。福生。
 入間郡 二本木(現入間市)。
 その他 芝(江戸か)。鎌倉。小田原。
 不明  ヤヨス(マヽ)カシ・桑橋。
 多摩郡・入間郡の村々はいずれも市域から三里以内だが、それ以外の遠地は、地域的なつながりではなく、武州・相州に門人の多数が分布している太白堂の、おそらくは月並句合の常連仲間として、江戸を媒介としたつながりがあったのであろう。なお「石川 漣艸」は、『都岐鳥』の項にのべたとうり、市域在村俳人の句合の判者としてあらわれる「漣艸雅君」と同一人物であろう。相互に判者になったり投稿者になったりしあうのも、いかにも在村俳諧の世界らしいことである。