E 奉額句合の開催と参加

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 奉額句合は、どこか著名な寺社に、入選作を額面に彫って奉納するために句を募るもので、宗教的な権威の下にあって永久に保存されると信じられ、多くの人々の目にふれやすいために各地で企画され、多数の在村俳人たちがその俳号と句をのこしている。現在も各地の寺社に掲げられているのが見出される。主催者(数名または一グループ)が、何人かの宗匠を撰者にたて、各地の有力な仲間を後見人とし、撰料・版彫料などをふくめた投稿料(これを「入花(にゅうか)」とよんだ)と締切期日をきめ、投稿をよびかける刷物をつくって各地に配布する。あつまった句を社頭などで撰考して開巻し、秀句を奉額に仕立てるとともに印刷して各人に返送する。企画から完成まで少くとも半年以上をかけておこなわれるのが常である。募集のしかたの一例を写真で示してみよう。多摩郡滝山村の金毘羅宮への奉額句合の投稿よびかけの刷物で、句を届出る場所の一つに拝島村の橘屋という家があげられている。(指田十次家所蔵)

『武陽滝山古城金毘羅宮奉額』

 このような奉額句合の投稿届先に名をつらねるような拝島村は(のちに詳述するが)、人々の集まりやすい地域小経済圏の一つの中心点であっただけに、地域小文化圏の一つの核として、届所の役割をはたしやすかったのであろう。
 投稿される句数は、村域規模でおこなわれる小さいものでは百数十句ていどであるが(例『山王宮奉燈 秋乱題句合 寛尓楼宗匠 催主 上川原 指月・友枝』指田十次家所蔵一五二句)、郡域規模を対象とした大きなものになると、一〇〇〇~二〇〇〇句からさらに五〇〇〇句に及ばんとするものもあらわれていた(例『武州拝島山王宮両大師両所萬代奉額句合 企玉垣連谷ヶ貫 千秋庵泰賀』句員四千九百余章、嘉永六年。青木正州氏所蔵)。この地方の在村俳人連の活発だったことをしのばせる数字である。
 さて、奉額句合の刷物には年代の記入のないものが多いが、蒐集状況や掲載俳号・撰者名などから推定して、年代順にたどりながら、市域在村俳人たちの句をみてみよう。
 まず、昭島市域の俳人が催主の一人に加わっておこなわれた奉額句合が一つある。『武州高尾山永代奉額句会』(安政六(一八五九)年)である。

『武州高尾山永代奉額句合』

(一) 『武州高尾山永代奉額句合』(指田十次家所蔵)
    (卓郎撰五点之部)
  何処にやら人声高し月こよひ       武福島  梅光
  山形もいつかかはるや遠かすみ      宮沢   其盛
  掃よせておくや小寺の落つばき      中神   柳水
  ふみ月や庵の壁にも虫の声        ゝ    景山
  むしなくや野は賑やかにたそかるゝ         ゝ
  水色のしれる田川のぬるみかな      ゝ    梅里
  寝て聞ばかへすやうなり小夜時雨     ゝ    霞松
  行春や人にしたしき鳥の声             ゝ
  椽先や膳のうへにも梶一葉             ゝ
  見るものにみなけしきあり雲の朝          ゝ
     (菊守園見外撰五点以上)(見外は、甲州郡内俳壇の重鎮で猿橋宿の人、小林氏。多摩と郡内の結びつきの強さを示す。)
  山寺やもみち一と木の夕日和       フクシマ 梅光
  かねに眼のさめて冷たきこたつ哉     中神   文調
  初東風(こち)やはやおもひたつ旅こころ ハイシマ 巫山
  初午や社の鶏のなれ/\し        中神   霞松
  風の間やふいと聞かね(鐘)花の中         ゝ
  水かけし宵や門田に鳴水鶏        中神   梅里
  万代(よろずよ)や戸さゝぬ門の月とうめ      ゝ
  掃よせておくや小寺の落つばき      中神   柳水
  桑の芽や女子手業(おなごてわざ)の持はこび    ゝ
  夕風や膳のうへにも飛いなご       中神   霞松
  なぐさみに網引舟やはるの月            ゝ
     (七点之部)
  凍る夜や何かおとするはしりもと     中神   梅里
  ほど/\にぬるむや水の音もして     中神   霞松
  夕風や艸にすがりて秋のせみ            ゝ
     (耕園居墨農撰五点以上)
  あざやかな松の葉ふりや春の空      中神   玉蛙
  遠乗の見る間にかすむ縄手かな      中神   玉蛙
  秋ちかくなりて来にけり風の音      宮沢   其盛
  見極めのつかぬや花のうら表       ハイシマ 巫山
  晴て居て何処やらくらし盆の月      中神   玉蛙
  長閑さや歩行(あゆめ)ばまはる風ぐるま 中神   玉蛙
  かね(鐘)に眼のさめて冷たきこたつ哉  中神   文調
  のどかさや朝からくせる籠の鳥      ゝ    如風
  谷汲へ笈を納めて袷かな         上河原  規隆
  長閑さや灸すへてから活(いけ)る花   宮沢   其盛
  夕立や土のほめきのけふりたつ      ゝ    巣枝
  水くさき走りの下やなく蚯蚓       中神   柳水
  後先の照るもちかくや寅の雨       ゝ    景山
  うら表なき藁家かな九月の秋       ゝ    梅里
  水のある田に更安(ふけやす)し春の月       ゝ
  ふけ行や声もまはらに渡る雁            ゝ
  初うまやくるゝ烏のさわく森            ゝ
  暮るゝ田に焚火も秋のなこり哉           ゝ
  板屋根に夜のへる音やおち椿            ゝ
  はれて行畑の雨気や鳴雲雀             ゝ
  如月(きさらぎ)やたしなき雨のけふる畑 中神   霞松
  すゝしさや滝のしぶきに舞草鞋           ゝ
  木からしや夜もからすのうかれ鳴          ゝ
     (七点之部)
  秋ふかし三保の入江にくるゝかね     ハイシマ 巫山
  地けふりに野は暮はてゝ朧(おぼろ)月  中神   玉蛙
  散花に掉手ゆるむや竹筏         中神   柳水
  艸のかげはなれす鳴や雨の虫       ゝ    景山
  水かけし宵や棚田に鳴水鶏        中神   梅里
  雪の夜のくらき山路やこえる関           ゝ
  ひる顔や木かけもみへぬ野の広さ          ゝ
  夕風や艸にすかりて秋のせみ       中神   霞松
  柴の戸や昼もむしなく小くらかり          ゝ
  照りかへす艸のよれ葉の暑さ哉           ゝ
  寐こゝろにし(知)れる雨夜や春の雁        ゝ
     (秀逸之部)
  松風の止て浅茅のしくれ哉        上河原  里耕
  月凄く風のまとふや寒念仏        宮沢   其盛
  なまくさき風におどろく枯野哉      中神   玉蛙
  窓の梅月とさす手に匂ひけり       中神   柳水
  吹はれし空や時雨のちきれ雲       ゝ    景山
  万代や戸さゝぬ門の月と梅        ゝ    梅里
               校合(全一三名の内)
  滝音に闇のふかさや時鳥              柳水
  ほとゝきす鳴や夜明の登り舟            眠外
  行先の山は雨なりほとゝぎす            巫山
  木の間から暮るゝ山根やほととぎす         景山
  脊を見せてなくや峠の時鳥             玉蛙
                 催主
  眼くばりの勝手ちがひや郭公            芳扇
  待夜とて茶も水くさし時鳥             梅里
     安政六未水無月
 末尾には、奉額の大きさや書家・彫工師などを記し、集った句の総数が四千句をこえていること示している。つぎのとおりである。
   額面惣欅
  横長サ 壱丈三尺
  堅巾  二尺九寸
  縁中仕上四寸五分
   但蒲鉾形
  龍長さ 四尺二寸
  口字撰者 耕園居
  口字〓(ママ) 雪城俊郷書
  秀句  琴城本行書
  彫工  三枝鳳尾
      集句四千余章
(二) 『立川諏訪宮額面発句』(中村保夫家所蔵)
 東隣の村にある立川諏訪宮の奉額にも昭島から大勢が参加している。評者は寥松・雪雄である。寥松は「入朶園寥松」で天保三(一八三二)年没、雪雄は著名な梅室の初号で、文化初年~文政初中期までつかわれた俳号である。この奉額は文政初中期のものと推定できる。
  霜になる露としらすや秋の蝶      郷地   うたゝ
  秋の夜の木のはに雨の音すなり     大カミ  成富
  世の中をうたふて拾ふ落穂かな     中カミ  亀玉
  庭のきく(菊)次第にへりておもしろき ゝ    杏山
  ことしのみ身にしむ風のふく秋か    郷地   階龍
  雨に問ふ友のたのもし萩の庵           うたゝ
  寝上戸の三里来て寝る月見かな     フクシマ 月峰
  憎ひ子も勝てよとおもふ角力かな    大カミ  中子
  稲つる(マヽ)や岨(そば)にあやふきはなれ家  階龍
  山間(やまかひ)や紅葉にてらす諏訪のうみ    成富
 この奉額の催主は明記されていないが、市域村々と日常的な文化交流圏を同じくする隣接の立川村(柴崎村)の俳人も多く名を連ねている。俳号のみを紹介するとつぎのとおりである。
 保月 亀年 林子 文洌 双鯉 一歩 朗月 はたち
 また投稿者の在住村名をみると、「相州アラ川」「遠州モリ」「江戸芝」「麻布」「上毛下仁田」などからの一~二名ていどをのぞくと、大部分は現在の八王子市・立川市・府中市および昭島市域にぞくする地域である。ほぼ西武州~多摩文化圏の在村俳人によってなりたっていたものである。
(三) 『武陽大勝山観音堂永代奉額句合』(酉九月。嘉永二年か。青梅市青木正州氏所蔵)
  ぬれかみを裂てもやみぬ茶立虫          如月
  唐箕尻え向てちるよけしの花      中神   玉露
 市域からは二名のみである。判者は、江戸の著名な太白堂孤月・南街堂文巡を中心に、近村の俳人から太衆堂桃々(アサカハ)・太川堂嵐花(川口)・観月庵荷葉・桃山窟里雨らを評者に加えている。主催者は江戸の桃志・如月(後者には江戸という地名記入はない。中神村に如月という俳号があるが、「中神村如月」と明記されてもいないので、あるいは桃志と同じく江戸人であろうか。)が「催主」となっている。投稿者は、江戸のものも少くないが大部分はやはり多摩郡の在村俳人たちである。全部で「集句二千余吟」であったと記されている。
 中神村玉露は、この嘉永初年前後、秀句をよく作っていたらしく、『武引田天王奉燈角力句合』(嘉永二年己酉。太白堂孤月・白眼台松雨評。世話人秋川連。勧進元、桃里・東。)の角力番付に似せた俳人番付表には、多摩郡各地の在村俳人四八人にまじって、西の前頭二〇枚目に掲げられている。(青木正州氏所蔵)

『武引田天王奉灯角力句合』

 また中神村福厳寺の光国和尚の弘化四(一八四七)年の日記にも「玉露」の句がかきとめられている。和尚の代がわりの転位式に鎌倉建長寺天源庵までおもむいたときの句である。「玉露」という俳号が、光国和尚のものか、檀家惣代として同行した善兵衛あるいは伝左衛門のものかは不明である。
    三月廿ヶ日 天気  由井ケ浜にて
  後からは我も霞(かすま)ん浜七里   玉露
            袖ケ浦にて
  春旅や風面白き袖ヶ浦         ゝ
(四)『武陽伊奈岩走神社横沢大悲願寺大悲殿奉額句合』
        (年不詳。嘉永初年頃か。青木正州氏所蔵)
  うごかせば蚊に成(なる)棚の荷鞍かな  郷地   園生
  打ちかけた碁の舟にある小はるかな    田中   梅林
  文字高く成(なり)ぬ枯野の傍示杭    ハイシマ 其遊
  献立を巣から見てゐる乙鳥(つばめ)かな ハイシマ 直嶋
  佐保姫の心いさめに吹(ふく)風か    タ中   文寿
 伊奈・横沢は現在の五日市町である。判者には江戸から太白堂孤月・南街堂文巡、花判者として投稿者の多摩在村俳人から諏訪宿の南脱堂文鵆、川口村の南雲斎竜子、片倉村の南有堂素秋(いずれも現八王子市内)が加わっている。川口村南雲斎竜子は、明治期老境にあったころ、ローマン派詩人北村透谷と親交があり、その『三日幻境』に描かれている秋山国三郎の俳号である。明治初期拝島村の俳人とも親しい人物である。
 少数をのぞきすべて多摩郡内の投稿者によって占められ、「惣句数千二百余章」があつまったとされている。催主は多摩郡伊奈村(現五日市町)の勇盛・藤枝・竜水らである。なお田中村の文寿は、南雲斎評の最優秀句十句の天地人に次ぐ第四位として番外入選をしている。
(五) 『武州拝島山王宮両大師両所万代奉額句合』
          (嘉永六(一八五三)年丑正月十八日 開巻)
  むっくりと牛の起るやほととぎす      南中カミ 眠外
  五六間鵜の流れけり時鳥(ほととぎす)        仝
  折ふしは雨もふるふて啼水鶏(なくくいな) ゝ    朏山(はいざん)
  短夜も流石(さすが)くるはず鶏のこえ   ゝ    霜月
  川べりの竹の中也かきつばた        南中カミ 眠山
  水音の山にくれこむ四月哉         南中カミ 眠外
  香にめでゝ庭掃(はく)梅の月夜哉     南中カミ 山外
  葉のうへに花の飜(こぼ)るゝ八ツ手哉   南中カミ 眠外
  井戸堀のはだかで出たり寒の入            仝
(村名が「南中カミ」となっている。この句合の主催者の谷ヶ貫村の隣の入間郡中神村と区別するために南をつけたものと推定できようか。ほかに「中カミ枝雄」「中カミ保雄」とあるのは入間郡中神村のことと思われる。市域の寺社に奉納されたものとしてもここにとりあげてみるべきであろう。)

『武州拝島山王宮両大師両所万代奉額句合』

 
 この句合は、標題のとおり市域内拝島村の「山王宮」・「両大師」(拝島大師と通称)への奉額のためのものである。主催者は「企 玉垣連 谷ヶ貫 千龝(秋)庵泰賀」とあり、入間郡谷ヶ貫村(現入間市)の地域宗匠格の人物である。もっとも多くの句が入選掲載されているのも「谷ケ貫連」とよばれるこの村の俳人グループで、二七名を数える。
 谷ヶ貫村は、拝島村の北方約三里(一二キロメートル)、八王子から拝島をぬける日光道からはややはずれるが、青梅から約一里の地にあり、青梅-扇町屋(拝島と同じ日光道の宿駅)-川越を結ぶ道(狭山根(さやまね)通り)にそう村である。青梅を渓口市場町の一つとする多摩地方特産の商品生産物が、川越から新河岸川の舟運で江戸へはこばれる商品ルート上に位置している。商品生産・流通にたずさわるものが多く、江戸文化ともつながりをもちながら、多くの俳人仲間の中心の役割をはたしていた。たとえばその隣村中神村音好(浅見氏)は、第一節でのべたように、絹織物商として江戸の大名屋敷に出入りし、俳諧のみならず狂歌もよくして、江戸で出版された狂歌集にも名をのこしている。(『狂歌八題集』武隈庵双樹撰、天保十二(一八四一)年、大神町中村保夫家所蔵。『新選俳諧三十六句僊』弘化三(一八四六)年、同町石川善太郎家所蔵による。)
 いずれにしろこの地域は、江戸地廻り経済圏の一角にある村々として、「拝島山王宮両大師」の信仰圏内でも目立って文化的な活動のさかんなところであった。同信仰圏にぞくする在村俳人の句をつのるべく、奉額句合の主催者に名乗りでたものであろう。こうした谷ヶ貫連・泰賀らの呼びかけに応じて、実に「四千九百余章」の句が投稿されたのである。
 投稿入選者の出身村々の分布は、拝島山王社・両大師の信仰圏を知る一つの目安にもなるので左に掲げてみよう。第三節で詳述する「拝島本覚院大般若経」の納経者の分布圏の、ほぼ北半分とかさなることになろう。
  投稿入選者出身村名
     (青梅市)(奥多摩町)(日の出村)(同)(五日市町)(秋川市)(同)(福生市)(立川市)(昭島市)(八王子市)(稲城市)
 多摩郡   青梅   小丹波   大久野  平井   伊奈   二宮  小川  福生   砂川   中神   千人町  玉川連
     (川越市)(狭山市)(所沢市)           (以上同)(不明)(飯能市)(同)(入間市)                 (以上同)
 入間郡   川越   入曾   岩岡 中富 上新井 三ケ島   山口  狭山連  双柳  笠縫  新久 小谷田 谷ケ貫 中神 寺竹 金子  二本木
     (吾野町)
 秩父郡   吾野
 判者には、まず江戸の宗匠格から二名、為誰(いすい)庵由誓(ゆうせい)と一具庵が招かれ、嘉永六年正月十八日泰賀の自宅で選考されて開巻がおこなわれた。由誓は寛政元(一七八九)年生れ安政六(一八五九)年没の江戸の人、江戸の著名な札差(旗本御家人の禄米の売払い、資金融通などを営む豪商)井筒屋の番頭である。一茶の庇護者としても名高い井筒屋の主人「成美」(夏目氏)に俳諧の指導をうけ、江戸宗匠の中でも一角の地位をえ、各地から指導を乞うものも多かった。一具庵は奥羽生れ僧籍の人、大飢饉のさなか天保七年野巣編『済急紀聞』という救荒書に跋文をよせている、農村的な俳人。晩年を江戸ですごし嘉永六年七三歳で没している。(『俳諧大辞典』・今田洋三『江戸の本屋さん』参照)
 この二人の江戸宗匠の評者のほかに、在村俳人から、谷ケ貫村の滝廼屋(たきのや)錦賀(製茶業)、入間郡中神村賢木園枝雄、金子村梅下窟好文(梅田氏、名主)、飯能村平臥斎友義(小間物商)、福生村完尓楼友甫(田村氏、酒造業)らが、「当座判者」・「花評」として判者に加わっている。また投稿入選者のなかには「青梅村臼左」(好々居臼左、薬商)のように、この時期以降明治初年にかけて青梅を中心に多摩地方のかなり広い地域で宗匠として重きをなすにいたる俳人もふくまれている。
 こうして、江戸地廻り経済圏の一角にあって、商品生産・流通にたずさわる豪農らを中心に、西武州の多くの在村俳人が、拝島村山王宮・両大師の宗教的権威の下で、奉額として多くの人の眼にふれながら永く遺されることを願って句を作り投稿していたのであった。この奉額は、拝島村が宿駅・市場町であるとともに、西武州~多摩在村文化圏の、小さいながらも一つの核としての役割をはたしていたことの文化的象徴であった。
(六) 『武陽小丹波 熊野宮永代奉額四季混句合』
          (稿本。嘉永年間か。青木正州氏所蔵)
  水もまたとみ(富)し住居や燕子花(かきつばた) 拝しま 倭女
  わすれたる植木に霜のわかれ哉          拝嶌  雅月
  清水(氷)よりうえを流れて春の水        宮沢  栄枝
                       (「清水(氷)」は、「清水」を消して「氷」に添削してある。)
 小丹波は現奥多摩町、主催者は竹賀・異風、判者は「春秋庵梅笠(ばいりゅう)」、投稿入選者のなかには、青梅・立川・日野・五日市など多摩各地の俳人の号が目立っている。拝島の「倭女」の句は、一部を添削され最秀句として「再考十印」の部に再録されている。在村文化のなかで、女性もなかなかの活躍をしていたことになろう。
  山水に富し住居や燕子花             拝島  倭女

『小丹波熊野宮永代奉額四季混句合』

(七) 『武州山田天満宮永代奉額句合』
          (嘉永末年~安政初年(一八五四)頃か。青木正州氏所蔵。版本)
  来る方が声の表かほととぎす       中神  眠外
  つみ草や松に預けし一包         中カミ 玉蛙
  鶯にさそひ出されて春の旅        中カミ 喜遊
  子を腹にかくして鶏のしくれ(時雨)けり 中カミ 眠外
 武州山田は、現在の五日市町山田、判者は江戸宗匠の太白堂孤月と、藉芽堂雨村(江戸人か)の二名。催主は山田村の隣村伊奈村の蘭子、山田村初霜・楳里らの四名、近隣の在村俳人からも引田村の旭堂東・太文堂桃星、代継村の武国庵玉人らが、花判者として評に加わっている。いずれも秋川の北岸沿いの村々で、とくに東・桃里は先述の『武引田天王奉灯角力句合』の世話人秋川連の勧進元としても名をのこしている有力俳人である。