F 手稿本の句合について

1119 ~ 1121 / 1551ページ
 以上、昭島の在村俳人の俳号とその作品を、版本として板行された比較的大規模な句合のなかに見出してきた。そのうち、昭島の在村俳人が中心になって募句・編集したものは、二つほどにとどまっていた。多くは、江戸・八王子あるいは多摩郡・入間郡など西武州の村々で主催されたものであった。これらに、昭島の在村俳人のかなり大勢が参加していたことから、かれらが、経済的にも文化的にも江戸・八王子および西武州の各地域と深い結びつきをもって、活発に活動していた様子をうかがうことができた。
 こうした活動の様子を、もっとも日常的なレベルであらわしているものは、手稿本のまま村にのこされ、板行もされなかったもっと小規模な句合である。主催者はすべて市域内の村人で、参加者も一村内か、あるいは今の市域にぞくする村々・広くともせいぜい隣接する福生・立川と多摩川南岸沿いの近隣の在村俳人だけである。句合の判定用に清書した手稿本のままで残され、多くのものには年月日さえも記されていない。なかには清書以前の下書きのままのものもふくまれている。個人の句控えのようなものも見出される。
 これら板行されなかった手稿本は、市域の村々だけに唯一のこされているもので、文化財としても貴重な価値をもっている。できるだけ全文を、史料編第十二章に採録することにしたので、内容については、そちらを参照してほしい。句合の形式は、「歌仙」と称して厳しい規則にのっとった連歌形式のもの、一人が三題または五題ずつ提出して判定をするもっとも一般的な句合、「廻文」といって上からよんでも下からよんでも同じ文句になるように作った遊戯的なもの、などさまざまである。おそらく、当時の江戸をはじめ全国で行われていた俳諧のあらゆる形式が、ほとんどそのまま村内でおこなわれていたものと思われる。
 そこに現われてくる各村々の俳号は、ほとんどがこれまで版本に見出してきた俳号と一致する。手稿本にのこされているような日常的な活動が基礎になってはじめて、江戸宗匠の月並句合への投稿(しば/\集団投稿の形をとる)や、各地の奉額句合への参加がおこなわれ、また時には、みずから催主として募集し、句合を出版できるようになっていたものであろう。
 これら手稿本は、市域にぞくする近世村落九ケ村のうち、大神村と上川原村二ケ村の、中村保夫家・石川善太郎家・指田十次家・指田万吉家の四家と福厳寺からしかみつかっていない。まだほかにも市内各地で発見される可能性はきわめて高い。今後の発見によって、近世昭島在村俳人の新しい顔ぶれが書き加えられることを期待したい。